山中禍津凶星之言

一夜

 暗雲立ち込める夜空にはたと煌めいた星は、力強く撓り自分の往く先の山へと降りていく。
 咄嗟にその先を望遠筒で見据えると山の大地が光を発す。アッと思う間も無く木々は轟と唸りを上げ始めた。山に星が落ち火の手が上がったのだろう。
 禍津凶星(※1)をこの目で見たのは二度目である。あれを見ると碌な事にならないと知りつつも体は動き出した。人気の少ない時間帯、されど怪我人が居るやも知れぬ。

 半刻程して駆けつけると果たして其処には怪我人が居た。身の丈五尺にも満たぬ女子(おなご)が目の覚める様な真白を身に纏い、煌々と燃ゆる炎の渦の中心に横たわっている。見た事も無い装飾に包まれた衣は全体的に鳥を思わせ、その姿は正しく山海経・天狗(あまきつね)の其れであった。ぬらりと肌を撫でる炎共を潜り抜け中心に辿り着く。持ち上げた肢体は嘘のように軽い。
「もし。もし。お気はありますか」
「」
 女子からの返しは無い。薄く目を閉じ眠っているようにも見えるが、額の蒼白さと懐に沈む朱色を以てそうではない事を悟る。子の刻の山中、加えてこの衣の様相であるから十中八九妖(あやし)であると見て相違無いだろう。しかし妖としては振る舞いが些か派手過ぎる。
 …疑いはあれど、やるべき仕事は決まっていた。火除けをしてある己の着物を脱いで女子に被せてから抱え込み、方々から手を伸ばす魔炎の筋を抜け谷に向かって一周(にのまえしゅう)は走り出した。

 

※1…流れ星。不吉の象徴とされた。

 

 

二夜

 「気付かれましたか。それでは早速ですが此処から逃げましょう」

 この女子は妖でも無ければ人間でもない。それが彼女の痛めていた足を治療した際に周が出した結論であった。

 であればこの火事、人間である己よりも目が利く山の妖達が黙って見過ごす筈が無い。応急的な結界は貼ったものの、間も無くそれも切れるだろう。此処は彼らの根城、結界が切れれば半刻も待たずに袋の鼠である。

 女子は目覚めと共に浴びせられた言葉を今一つ理解仕切れぬ様相で、その大きな瞳でしきりに瞬きを繰り返した。

「君は誰だい?」

 ちりんと鈴がなるような細い声で女子はそれだけを問うた。その声、気の影から周は改めて目の前の小さな白に異質の色を感じ取った。

「後ほど説明致します。兎角、此処は妖共の縄張りに御座います。まずは一刻も早く」

 逃げましょう、と周が言い切る事は叶わず、二人の間を裂くかの如き風が一陣吹き荒れた。

「これはこれは、何方かと思えば薬売りの坊ちゃんですか」

 飄々と楽しげな声だけが四方八方からうわんと鳴り響く。周は苦虫を噛み潰したような表情になり、女子は相変わらず飲み込めて居ない様子でことりと首を傾げた。

 ばさりと木々が唸り擦れ、風が止んだ先に一匹の天狗が微笑んでいた。

「犬天狗の蒲生(がもう)と申します。天狗とはいえ未だ斥候、しかも若衆の域も出ぬ若輩者ゆえ、どうか肩の力を抜いてくださいまし」

「…御心遣い、痛み入ります」

 早速厄介な相手が来てしまった。しかし、目の広さ脚の速さから考えて天狗がいの一番に駆けつけることもまた道理である。周は蒲生に気付かれぬように弓を構えようとしたが、やんわりと彼に釘を刺されてしまった。

「まあそう構えずに。私は口下手でしてねえ、ですから単刀直入にお尋ね致します。坊ちゃんの後ろの可愛らしいお方、一体何方からいらっしゃったので御座いましょう」

「さてね。私もたった今此方に来たばかりでして。これから喫茶に誘うところです」

「良いですねえ喫茶。是非私も同席したい」

「…生憎二人で楽しみたいもので」

「オヤ、袖にされてしまいました」

 ようやっと事情が判って来たのか、女子は周の背に隠れるようにして木の上に留まった蒲生を見上げた。

 口下手と言いながら随分と回り口説い言い回しである。要するに、この得体の知れぬ女子を今此処で引き渡さぬ限り付いて回るという事であろう。

「繰り返しますが若輩者に御座います、成る可くなら穏便に行きたいのですよ。坊ちゃんとは日頃良い関係を結ばせて頂いている事ですし」

 蒲生がピュウと器用に口笛を飛ばすと一面に獣の気配が増えた。周の目からは見えぬが、恐らく囲まれたのであろう。じりじりと気配が躙り寄るのを感じながら、周はこの場をどう切り抜けるかを考えていた。

「…わかったわかった。降参だ。こーうさーん」

 その時、ひらひらと両手を上げながら背後の女子が立ち上がった。

「な…貴女」

 彼女がそのような行動に出るとは全く思っていなかった周は大いに狼狽えた。女子はまあまあとそれを制し、まるで軽い足取りで周の前へと歩みを進めた。

「おたくら天狗は妖怪の分際で人間と同じような機構を持つ同調圧力大好き集団だ。どうせこんな所でギャアギャア問答したってどうせ後で大物が来るんだろ?その前に質問に答えてやるよ」

「…いやはや、見かけに寄らず豪胆なお嬢さんですこと」

 蒲生が片手を上げると一面に満ちていた獣の気配が消えた。もう片方の手で何処からともなく扇子を取り出して広げ、気怠げに口元を隠しながら彼は続けた。

「仰る通り大物は来ますよ。私が声一つ上げるだけで今すぐにでも、ね。そうなりゃあ貴方は勿論の事、後ろの坊ちゃんだってただじゃあ済みません。そうならない回答を貴女から頂けると嬉しいのですがねえ」

「ああそのつもりだよ」

 妖には他の動物を支配する為の圧がある。圧はその妖の格が高い程強く、弱い者を無条件で平伏させる力を有する。

 天狗は妖の中でも指折りの格だ。普段から接し慣れている周ですら今日のようなやり取りでは骨の髄から痺れるような圧を感じているというのに、目の前の小さな子供はそれを全く感じさせない振る舞いをしている。

 女子は相変わらずの口調で自らを五日語と名乗った。

「妖怪か人間かだって?馬鹿言え、んなもんと一緒にされて貰っちゃ困る。私は時間。本の栞。

 砂時計の中の砂が、引っ繰り返す人間の指先に敵うとでも思ってるのか」

 淡々と告げる鈴の声を前に、蒲生の目がすうと細められた。

「どうやら私の期待は外れたようです。御免」

 

 

 ぱちん。

 

 

「………………!」

 蒲生が指を鳴らし、周が咄嗟に身構えてから数秒。異変に気付いてそろりと顔を上げた。

 何も起こらない。音すらせぬ。

 その静寂は水を打った等と云う比喩すら未だ甘く、自らの動悸で耳鳴りが起きそうな程である。

「さあ邪魔者はもう動けない。行こうか坊ちゃんとやら」

 五日語はそう言って悪戯に嗤い、周の袖を引いて走り出した。

 

 

三夜

 蒲生の指示によって薬売りと女子を囲みに入った若衆は、彼の発した合図により一斉に二人に飛びかかった。否その筈だった。

 長槍、刀剣、白打。各々が二人の居た地点を叩き、砂埃が辺り一面に舞う。しかし、その場に居た全員が手応えの無さを感じた。果たして其処に二人の姿は無く、咄嗟に周囲の気を探ったがそれでも見つからなかった。

 天狗達は大いに狼狽した。己達はこの世で一番迅い妖である。仮にこれが幻術だとしても、此処に居る十数の目を掻い潜って何らかの術を発動することなど不可能だ。よもや端から幻術だったか…其れにしても、駆け付けた若衆の内誰一人とも気付かぬ幻術があるものか。

 四方を探そうと散る若衆を制して蒲生は長を呼び出した。この状態が一体何であるのかも判らぬ以上、下手に動き回って探すのは危険が過ぎる。やって来た長に事の次第を陳情すると、案の定長は探し回っても無駄だと諭した。

「蒲生、その娘は確かに本の栞と言ったのだね」

「はい」

 天を衝くような背の大男が風を纏う。朱の一本下駄がその体を殊更大きくさせており、ゆったりと木に降りると首からかけた白狼の毛皮が白髪と混じり靡いた。顎を刈り取った面が表情を読み取らせず、皺の目立たない口元のみが穏やかに弧を描く。

 これが、蒲生はじめ此処一帯の天狗の長である。

 長は軽く息を吸い込み丹田を温めた。「私が未だお前達より幼かった頃に訊いた話だ」と前置きして長は語り始める。

 

「彼方此方で人間が刀に弓にと戦をしていた時代のこと、一瞬の内に刀を構えた人間の腕が千切れたことがあったそうだ。全員のだ。人々ははじめ、それを私達の仕業と考えた」

 聞き覚えのある話であった。

 人間の政に関わる戦に天狗が干渉するなど有り得ぬ。それは今も昔も変わらぬ掟であり、当時も天狗達は人間の抗議を真っ向から否定した。双方言い分を曲げずあわや戦闘というところまで行き着いたが、結局有耶無耶になり沈静化したという顛末だ。

「実の所、話は有耶無耶になった訳ではない。人間と我々との間に一人の男が介入して来たのだ。それは俺のしたことだと言いながらな」

 白い衣に身を包んだ痩身の青年だったと云う。

 まるで何処にも力を入れぬ物腰のその男に、人間ですら彼を信用しなかった。お前のような棒切れが一瞬の内に腕を落とせるものかと嗤い、男を挑発した。言葉にこそ出さなかったものの天狗も同じ思いではあった。熱の入った人間側から一人が名乗りを上げ、ならばこの場で俺を斬って見ろと叫んで刀を構えた。

 白い男は苦笑いし、そして誰の目でも追い切れぬ速さでその人間を一寸四方の賽の目にした。

 ぐずぐずになった“それ”が元人間であったとやっと全員が理解した時、場は一気に男から距離を取ったという。

「我々の中で最も目の良かった者曰く、それは必要以上にきっちりと賽の目状に斬り分けてあったそうだ」

 俄には信じ難い話である。されど長の言うことは絶対であり、ましてや偽りなど語る筈も無い。

「男は自身を巻物で言うなれば夾算(きょうさん)だ、と言った。俺は俺の思う物語の好きな場所に這入り込むことが出来るとね」

 時を自在に操る力と言われても実感など出来る筈が無い。仮に真にそのような力を持っていたとしても、彼が力を使っている時彼以外の時は全員止まっており観測することすら叶わない。

 しかし天狗は最速の妖。その天狗ですら追い切れぬ動きが出来るとなると、最早そう考えるより外選択肢が無かったのもまた事実であった。

 

「人間も我々もこの件は忘れることにした。恐らくどうしたら良いか判らなかったんだろうな。男はその後も気紛れに人間の里や山にふらりと立ち入ることがあったそうだが、やがて消えたらしい」

「…そ、そんなものが」

 あって堪るか。若衆全員の思いであった。長の目の前で思わず口走ってしまった蒲生が我に返ったが、長は構わないよと柔らかく笑った。

「私だって信じられなかった。生き物でも妖でもないということは、この世の絶対の理である陰陽のいずれにも魂が存在しないということになる。それは人間達の言葉で表すとしたら恐らくは…」

 もしも読物の中の世界に入り込めるとしたら。想像など出来ぬ、読物は読物である。この世の誰もがそれが出来ず、男にはそれが出来た。彼は神などではないが、決定的にこの世の者ではなかった。

「だから、その女子を追っても無駄なんだ。追いついたとしても確実に此方が敗けるよ。種の矜持の為に死ねると云うならば、先人の言い伝えを尊重できる筈だ」

 長は緩く息を吐いた。話す事に力を要したような、糸の切れた様子であった。

「薬売りは如何致しますか」

「放っておいて構わない。何かあればあちらから言ってくるだろう」

 彼も災難だなと長は快活に笑ったが、蒲生は今一つ呑み切れなかった。

 

 

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 一周は語を抱えて走っていた。この方が速かったからだ。

 くたりと体の力を抜いて肩で息をする語は、周に抱えられながら途切れ途切れに人里まで降りろと言った。憔悴しているようである。

 道中、周は先刻の光景を何度も頭の中で思い浮かべていた。自分たちに飛びかかって来た若衆全員が空中でぴたりと止まり、息すらしていないという恐ろしく奇妙な光景。語は自分から離れてはいけないとだけ言い、それから本当に何も答えなかった。

 人里の灯りが見えた時、周は今度こそ拭いようの無い違和感に襲われた。

「…人が……」

 声に出して尚の事肝が冷えた。

 多くの人間が行き交っている通りに足を踏み入れたにも関わらず、その場に居る者達は誰一人として指一本動かす事無く静止していた。静寂も過ぎると喧しく、鳴り止まない耳鳴りが肥大化して眼を圧迫する。

「降ろしてくれ」

 語が喋る。言われるままに降ろしてやると、語は有難うと礼を言いながら額の汗を拭った。少しは回復したように見えた。

「面白いだろう、この光景」

 語は停止した人間の内の一人に歩み寄り、背伸びしてぺちりと頬を叩いた。叩かれた人間は瞬きすらしない。良く出来た蝋人形のようだった。

「今、此処の世界の時間は完全に止まっている。…最も、この状態で地球上の全ての地点を確認したことはないから一概にそうとは言い切れないがね」

 曰く、五日語はこの世のものならざる者である。

 曰く、五日語は時を操る。

 世迷い事も良い処だ。目の前にこんな光景さえ広がっていなかったら信じずに終わった筈だ。

「…さて。いつもの気紛れで迷い込んだは良いものの、初っ端から面倒事に巻き込まれてしまった」

 君もね。と、語は少し申し訳無さ気に苦笑いした。

「先刻の様子を見ていれば判ると思うけれど僕は燃費が悪くてね。正直この状態を保つのもそろそろ辛いので悪いがもう少し君の厄介になるよ」

 語は仕草で周にしゃがむように指示し、周がしゃがむと軽い音を立てて背中に飛び乗った。まるで重みの無い体だ。

「息は止めておいた方が良い。きっと耐えられないぜ」

 言われた意味を理解する間も与えず、語は蚊でも払うような体で今の状態を解除した。

 静止したまま漂っていた気の流れがどっと周の身体を通り抜ける。即座に足元が覚束無くなり、何とかその場にあった建屋の柱を掴んだ。

「おいおい振り落してくれるなよ」

 背中の語が暢気に笑うがそれどころでは無い。視界が揺らぎ、歪み、耳と眼底がどろどろと蕩けそうな程痺れる。察する所、此れが時が止まっていた代償なのであろう。

 暫くすると呼気も落ち着き流れ出した気も正常に感じられるようになった。

 

 背に抱えた元凶の体温を感じながら周は震えた。もし、あれ以上止まった時の中に居続けたら己は一体どうなっていたのか。

 其れは恐れであり、畏れでもあり、何より己に課せられたある業に対する可能性にも見えた。

「民宿に行きますよ」

「おー」

 間の抜けた返事をしながら裾を掴んで遊ぶ、不可思議な凶星を背負い直した。

 

 

四夜

 彼――この場合は彼女か――に関する伝承は、何も妖共のみに伝えられていた訳ではなかった。人と妖、双方の間に割って入った者の事であれば、双方の眼から視た譚が残っているのは至極当然である。

 その昔、人が語るかの名は白穢(しらえ)と呼ばれていた。

 

「貴方の事は祖父から伝え聞いていた…」

 と、思います、と周は語尾を濁した。

 周が自信を持てなかったのは、伝承の白穢と目の前の女子との振る舞いがあまりにもかけ離れていた事にある。

 民宿に戻る前に立ち寄った喫茶で両の頬をまあるくしながら餡蜜を頬張る五日語は、その一風変わった風貌を踏まえてもやはりその辺の女子と変わり無いように見えた。

 語は周の曖昧な表現に気を悪くしたのかもごもごと口を動かしながら反論した。

「何だよそれ、はっきりしないな。時を止める白い男の伝承だろ?そりゃ僕だ」

「貴方のご親族などでは」

「ああ…頼む、笑わせないでくれよ。折角の餡蜜を吹き出すところだった。何だい親族って。そういうのは人間だからこそ築いているコミュニティだろ?」

 コミュニティ。聞き慣れないその発音は外来語だろうか。

 周が意味を考えていると、察した語が「ああ…ええと、共同体だ」と補足した。

「親だの兄弟だのって言う生物的な概念は僕には無い。形骸すら便宜的に定義しているに過ぎない」

「自身の身体を作り変えられると?」

「まあそういうことだ。大方その時はそういう見た目が気に入ってた時期だったんだろうさ」

 何なら今やってみるかいと茶化されたが、周は冷静に結構ですと返した。この間に語は三杯目の餡蜜に手を出していて、成程この食欲は確かに人と一線を画するだろうと思う。

 喫茶は静かだが賑わっていた。珈琲が文人達に酷評されていたのが遠い昔の出来事のようだ。周はあの苦さがどうにも性分に合わず、たまたま目についた紅茶を飲んでいた。此方の方がまだ柔らかくて馴染める。

 西洋の文化に浸り浮き足立った周囲は、二人が話す与太話など全く耳に入っていない様子であった。

「今後は如何なさるおつもりですか」

「ううん、特に何も考えてないな」

 本当に何も考えていないようだった。今の彼女は、兎にも角にも餡蜜が美味かったことだけを全身で表していた。

 周は思う。

 時を止め、自身を作り替え、そうやって悠久を流浪する彼女の力。それは恐らく下手な神よりも泊が付いているだろう。

 文字通りの化け物級な彼女が、行きずりの人間を何故助けたのか。

「決まってるだろ、何となくだよ」

 いい加減餡蜜は飽きたのか、語は蜂蜜をたっぷり塗ったトーストを注文した。

「薬売りって久しぶりに見たし、君は何だか面白そうだからついでにこのままふらふらーっと付いて行っちゃおうかなあなんて…嫌かい」

「いえ、まさか」

 この小さい体躯の何処に収まっていくのか。調子良く消えていくトーストの焦げ目を見ながら周は考えた。

 彼女の力を利用しない手はない。自分に協力的であるかはさて置き、手元に置いておいてまず損は無いだろう。

「…そうそう。君の背中に憑いていた鹿の子の痣、あれは僕が手伝っても多分無理だろうから諦めてね」

 瞬間、一気に肝が冷える。

 

 周は神獣から呪いをかけられていた。

 薬売りをしながら国を渡り歩くのも呪いに罹った血を薄める為だった。自身の血をほんの少しずつ薬に混ぜ、徐々に体内を入れ替えている過渡であった。

 だがそれも焼け石に水である。相手は山単位を統べる旧い神獣で、それも自らの死を以って周を呪っている。文字通りの全身全霊だ。一介の人間が神獣の精(ジン)に叶う訳が無い。

 語の力を使えば一気に組成を入れ替えることが出来るかと考えていたのに。

 

「何だ、気付かないとでも思っていたのかい。さっき背負われた時にすぐ判ったぞ。お陰で余り休めなかった」

 語は柔らかい頬を膨らませておどけたが、やがて無表情になった。

「神鹿のさごを殺したね。…否、さごだけじゃないな、母親もか。母親から無理矢理取り出して生きたまま黒焼きにしたな?」

「帰納法ですよ。子宝に恵まれなければ子宝を食べれば良い」

「ふふ。そんな顔して君もやる事が刳いな」

 選択肢が無かった。

 周は回想する。優しいけど口下手で不器用だった人の、まだ病に伏す前の姿を。

「解っていると思うが、その女も混ざってるぞ。巻き込まれたな」

「…貴方には隠し事が出来ないようですね」

 神の使いと謳われた神獣の子を殺し、たった一人の家族を亡くし、自らには業の凡てが跳ね返った呪いだけが残された。周の行いは結局何にもならなかったのだ。

「人が僕に隠し事なんざ百年早いぞ小僧め」

 冷たい珈琲を啜った語がにやりと笑い、ようやく彼女の”小時半”が終わった。

「ああ美味かった。このまま宿へ…」

 立ち上がった語はふと周の後ろを見た。二人向かい合う格好で座っていたので、周からは語が何を見たのか判らない。

「まあいいや、行こうか」

 早く早くと袖を引く語に引きずられる格好で周は立ち上がった。咄嗟に自分の背後を見たが、奥の席に栓の細い女学生が座っていただけで何も変わった所は無かった。

 

 

 

 夜で良かった、と思う。

 外に出た際周は自分の帽子を語に被らせたが、それでも彼女の格好は十分に目立った。これが昼だったら要らぬ人の目を集めることになっていただろう。

 語は物珍しそうな顔で通りの建屋を眺めていたかと思えば行き交う人をじっと見つめてみたりと、猫のように落ち着きが無い。

「愉しそうですね」

「新しい世界はいつも飽きない」

 月が紅い。見上げる語の白い瞳が灼かれたようにめらめらとその色を反射して、周は以前訪ねた富豪の屋敷に置いてあった琥珀水晶を思い出した。

「そういえば私の名を申し上げていませんでした」

 二つの琥珀が周を見つめる。周が名を告げると、二つの琥珀は案の定くっと歪んで「変な名前」と笑った。

「それじゃあもう一人の名前も聞いておかないとな」

 そういうと語は立ち止まり振り返った。反射的に周も背後を見遣るが、そこには宵闇が広がるばかりである。

「見えてるぞ」

 周には何も見えない。それもその筈で、語が話しかけていた相手は気が付くと周の横に立っていた。いつの間に。そう思うより先に細い声が応えた。

「はい」

 項垂れていた顔を上げたのは先刻喫茶で見たあの女学生だった。黒髪に黒い学生服を纏い、肌だけが青白く茫と光る。

「雛衣月(ひないゆえ)と、申します」

 周が距離を取る前に語が制した。悪いモノではない。上げた片手がそう言っているのは判ったが、語のにやにや笑いが嫌な予感を感じずにはいられない。

「何故」

 何とかそれだけを絞り出した。彼女が姿を見せてから感じるようになった腑がざわつくような悪寒は、これまで遭ってきた数多の妖のどの部類にも該当しないものだった。

「貴方達は御薬屋さんでしょう」

 ぼとり。

 冗談のような音を立てて女学生の首が落ちた。

 硬直する周の足にその可愛らしい頭がこつりと当たる。

「御薬をくださいな」

 あまり血は出ていなかった。首はもぞもぞと器用に動き、見下ろす周と目線を合わせて言った。

「直ぐに取れてしまうの。この通り」