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(紅茶より珈琲が好きな人篇)

 

 父も母も筋金入りの変人だったということだけは伝え聞いている。

 

 直射日光に当たると頭痛が始まり、酷い時には肌のあちこちに発疹が出る。紫外線アレルギーなんて動物として欠陥品も良いところだと思う。母がこの地下室を使っていたということは、この動物としてあるまじき欠陥は彼女の遺伝なのだろうか。

 否、遺伝だけではないだろう。物心ついた時から私は殆どの時間をこの地下で過ごした。家庭教師らしき男が頻繁に出入りし、必要な物は妙な容貌の双子が全て運び入れた。そうやって十数年が過ぎ、母はこの地下室と私を残して死んだ。

 だから、今私が道端でふらついているのは致し方ない事だ。

 母は私にある用事を託した。用事…というよりは、今後の身の振り方か。

 それを実行する為には外出する必要があり、結果、特注の日傘とアームカバーでも防ぎ切れない真夏の照り付けに私は目先の視界すらも確保出来なくなった。

 途中喫茶に入り、吹き出る汗と歪む視界を矯正しようとした。帽子を取った瞬間何人かの先客が此方を凝視したが、何故かは知らない。そもそも私は見ず知らずの他人と碌に関わった事が無い。

 少し回復し、再び生温いゼリーの海の中を泳ぐ。友人と言って良い程慣れ親しんだ手元の端末は目的地が近い事を知らせ、何でも良いから兎に角屋内に入りたい私は早足で進んだ。

 

 端末が示した目的地は何の事は無いごく普通のマンションだった。

 硬質な階段を登るとカン、と小気味の良い音がする。これが猛暑日でなかったら少しは楽しく感じただろうが、生憎既にそういった余裕は完全に無い。鉄の匂いがする手摺に手を掛け、アパートの2階へ向かった。ざわざわと路地の木の葉が音を鳴らし、何の気無しに其方を見たら緑が目に刺さった。痛い。

 呼び鈴がアナログな音を鳴らすと中から男の声がした。彼の足音が此方に来るまでに母から言われていた通帳を出しておく。

 しかし、本当にこれで良いのだろうか。母から教えられた言い方はどう考えても失礼な物言いになる気がしてならない。事前に何度も確認したが、母は笑ってそれで良いと言った。何か、聞こえとは違った別の意味が含まれた表現なのかもしれない。

「はーい」

 能天気な声でドアを開けた男は私の顔を見るなり固まった。

 まあそうだろうなと思う。誰だって、急に目の前に通帳を突き付けられたら驚くだろう。しかしこの部屋で、この男に、一字一句間違わずにというのが頼まれていた用事だ。引かれたらどうしよう。怒られたら厭だ。でもそういう用事なのだ。

 もう良い。うだうだ悩んでいても仕方ない。半ば投げやりな気持ちになって私は言った。

「こんにちは。この通りお金はありますので私を飼ってください」

 ああ言ってしまった。正常な一般常識を身に着けられている自信は無いが、そんな私でもこの言い方は明らかに礼に欠いている発言だと判る。男は引き続き黙って私を見ていたが、案の定その瞳はさっきより見開いていた。その唇がゆっくりと開くのを見て、私はいよいよ其処から飛び出て来るであろう失礼な小娘に対して浴びせる罵声を覚悟した。

 しかし、男は怒らなかった。

 ふらふらと私に歩み寄った男はぽつりと母の名を呼んだ。違う。私は母じゃない。まあ、自分でもかなり似ていたとは思うけれど。

 涼しい風が吹いて私の前髪が靡いた時、男は堰を切ったようにぼろぼろと冗談みたいな大粒の涙を流して私の肩を抱いた。

 

「エマ………」

 

 だから違うって。

 そう言わなかったのは、男がそのまま私に縋る様に泣き崩れたからだった。どうしたら良いか判らなくて、表札に書いてあった苗字で呼びかけたら輪を掛けて泣かれた。

 震える彼の旋毛が丁度目線の下に来る。彼の髪色が私と同じであることに気付き、私はようやく彼の本当の名前を知った。