AROUND THE WORLD

(周囲篇)

 

[1]

 教頭のどうしてもに敗け、二次会に付いていく事になった。

 女性陣はママさんばかりなので一次会の終盤でもう全員帰っている。会場に居るのは中年だらけで、だからこそ彼は浮いていた。最も、彼は自分が浮いていることを常日頃から判り切っていたようだったから、その日もサッと端の席に座って、そうして後はにこにこと周りに流されていたようだった。

 男ばかりの酒飲みというのはどうしてああ赤裸々になれるのだろう。

 その内、所帯を持つ四十代達がこぞって妻の愚痴を言い出した。中でも最も盛り上がったのは「女はすぐこっちを試すようなことを言う」だった。寡夫な私にはよく分からない理屈があるらしく、分かる分かると親父連中は大いに酒を飲んだ。

 何を思ったか、その内の一人が彼に話を振った。

 確か年下の恋人が居た筈だ。前回の宴会で散々に弄られていたのを覚えている。

 彼はちょっと意外なような顔をして反芻した。

「ううん、いきなり『別れて』って言われたら、ですか。…考えたことも無かったなあ」

 周囲が一瞬しんとなって、即座に弾けた。

 私も一度ぽかんとしたが、暫くして意味が分かって笑った。この色男め、と親父達はよって集って自毛にしては明るい髪をわしわしと撫でた。互いに嫌味の無い応酬だった。

 一頻り他と一緒になって笑った私は、はたと「ある可能性」に気付いた。気付いてしまったが最後、先程のように笑えなくなった。彼がこちらをちらりと見た気がして、私は手洗いに立つ。多分、態とらしかったと思う。


 言われた事が無いのではなく、本当の意味で”考えた事が無かった”のだとしたら。

 戻って来てからは、彼から見えない場所に座り直した。




[2]

 常連客がいるというのは有難い事だ。

 多くがそうあれるよう務めるのは当然であるが、こと彼女に於いては特にその向きが顕著だった。人の顔と名前を覚えるのが殊更に早い。観察眼と云うのだろうか…こちらが勉強になるくらいだった。

 高校ももう二年目か三年目になったろう彼女は、今日も開店前のシフトで入ってきて元気に注文を取っている。

 慣れたもので、休憩になると私と世間話をする事も多くなってきた。

「猫の女の方、居るじゃないですか」

 彼女のことは私も良く覚えている。猫の目をしたかの女性客は、先日テラスに紛れ込んで来た本物の猫と一緒にお帰りになったばかりだ。

 元より”猫のような”と評していた彼女は偶々その日のシフトに入っておらず、後になって私から聞かされて「見たかった」と大層悔しがったのだった。女性客はその後も来店する。

「あのお客様、最近紅茶の匂いがしないんですよ」

 そう、彼女は鼻も効く。だからこそ私の店で長く続いているとも言える。紅茶の微妙な香りを嗅ぎ分けるのは難しい。何種類もの茶葉が鎮座している空間であれば、それは尚更だ。

 ただでさえそんな状況下で紅茶を嗅ぎ分けられる上、彼女は女性客から香る”店の物ではない紅茶の香り”を以前から私に報告していた。確か、ダージリンだったと記憶している。

「しない、って言うとちょっと違うか。薄まったんです。代わりに、煙草の匂いがします」

「へえ。意外だね」

「でしょう?私もそう思って、すれ違った時に思わず立ち止まってしまいました。歯も綺麗だし、声も枯れてないし、何ででしょうね」

 煙草とはまだ無縁の彼女は首を傾げる。だが喫煙経験のある私は気付いた。多分、本人が吸っている訳ではないのだろう。それを伝えると彼女は納得したようで、

「なるほど!だから時間によって匂いが薄かったりするんですね」

 煙草は、朝に来店する時が一番分かり易いのだそうだ。




[3]

 変わった友人が居る。

 一寸待って欲しい。ここで「類は友を」と始まらないで頂きたい。重々承知の上で話そうとしている。彼女は、変わっている。

仮にも私立の女子大だから、中には筋金入りの箱入りが居たりする。毎日親の車で登校して来たり、二人分位のスペースで一人暮らしをしていたり、門限があったりがその例だ。

 門限。このご時世に門限だ。

 その、門限を決められているのが私が今から話す友人だ。流石に門限が決まっている子は彼女しか知らない。初めに聞いた時は本気で冗談だと思った。

 これが親であったらまだ分かる。…嘘、やっぱり分からないけど、でもまだ納得は出来る。彼氏が、と来たものだから私は驚いているのだ。とんでもない男が居たものだ。

 で、彼女の何が変わっているかというと、それを本当に律儀に守っている事である。

 あまりの事に目眩がしてくる。

 思わず待ち受けでカレンダーを確認した。うん、今は2015年、合ってる。

 同じ世代の女子なら分かってくれると思う。彼氏の多少の束縛は確かにある。そこまでは分かる。でも、偶の数回は反故にしたくなるのがニンジョウってやつじゃないかと思う。

 異常だ。


 事故か何からしい。本当に偶然に偶然が重なって、私達は夜の街で電車に乗り過ごした。彼女が一瞬顔色を変えたのを私は見逃さなかった。

 一人で別れようとする彼女を引き止めた。別に意地悪しようって魂胆じゃない。単純に危ないと思ったからだ。今だって彼女のことをちらちらと見ている奴が何人か居る。目立つのだ。この子は。

 次の電車はいつ動くか分からないらしい、という事を掲示板で確認した時、ふっと首に冷たいものが当たった気がした。

 何。

 振り向くと、ちょっと近い所に男の人の顔があった。

「そこ、雨漏りしてるみたいだよ」

 上を向く。確かに、天井がじわりと滲んでいた。じゃあさっきのは水滴か。

『来なくて良いと言った筈ですが』

 男の人は彼女の声に酷く嬉しそうに笑んだ。電光掲示板の時計は22時を1分過ぎた所だった。




[4]

 私は誓う。将来高血圧になったら慰謝料請求してやる。絶対にだ。

 本当に何となくだった。いつも白い服ばかり着ているからそう言っただけだ。日差しが強くなってきたから、太陽を反射するその白が鬱陶しかったのかもしれなかった。

 彼女はちょっと意外そうな顔をしてこう言ったのだ。

『だって、黒を着る必要が無いですから』

 こういう時は歩く辞書兼友人の出番と決まっている。

「こういう時、何ですぐ俺に言うかな」

 相変わらず怯えた目で歩く辞書は言う。でも、多分だけど、最近ちょっと慣れて来たと思う。目は怯えつつも言って来る事は結構遠慮が無い。嬉しいのかムカつくのかは不明。

「だってアンタなら分かるでしょ。はい、検索開始」

 うう、と呻いた歩く辞書は、しかし滑らかな指で辞書を撫でた。比喩でなく、彼は本当に分厚い辞書を持ち歩いているのだ。スマホ使えば良いのに。

「こ、これは辞書じゃない」

 くそ、思っていた事がそのまま声に出ていたらしい。煩い、そんな分厚いの辞書だろうが他の本だろうが同じだ。鈍器だ鈍器。持ち歩く意味が分からない。

 で、出た答えを彼女に言ってみた。

「”ひめこも黒は要らないと思う”だって。何なの?どういう意味?」

 彼女はいつもの押し殺した感じではなく普通に笑った。何なの、と詰め寄る私に彼女はDVDを渡す。パン屋で頬杖をつく少女と、黒猫のプリント。

 

 受け取って、有名すぎる中身を思い出して、気付いた。

 歩人のくせに!