dogs not eat

(ねこ、デレが見えない篇)

 

 

『馬鹿にしてます?』

 最近の彼女の口癖だ。

 言っておくが喧嘩中ではない。寧ろ逆で、彼女に対し声に出して可愛いと言う回数を増やし始めたのだ。その返答がこれである。

 今までも散々可愛いかわいいと言ってきたつもりだったのだが、どうやらあまりの可愛さに声に出てない時の方が多かったらしい。

 何かの流れで受け持ちの生徒の恋愛四方山話に付き合う羽目になり、「ウケんだけど」と言われつつちゃんと口に出して言わないと気持ちが離れる、とアドバイスをされた。

 今更…今更、彼女が離れていくことなど考えられない。防げるなら何でもする。そう何でも。

 だが、返ってくる反応が一向に可愛くならない。話が違う。

 

 陽気なアップテンポジャズのかかっている店内は、赤みの強い木目調が秋晴れを反射して観葉植物を煌めかせている。外なら照れるかもという淡い期待はブラックコーヒーに鈍く溶け去った。

「…か」

 かわいくねえ〜っ。思わず言いかけて口を噤む。危ない危ない。

 氷水でもぶっかけたようないつもの涼しい顔は崩れない。いつもの唇にいつもと違うレモンの浮いたアイスティーが流れ込んでいく。

「なんでそんなに普通なの〜…」

『だって。可愛いって、自分より低い相手にしか使わないじゃないですか。今だってそう』

「だってかわいかった…」

 グラスの底で解けたレモンの粒がストローから直接入ったらしく、珍しくふにゃりと弱った顔をして咳き込んだのだ。

「本当にかわいかった」

『二度も言わないで』

 二度も言ったのにこのつれなさ。いっそ泣きたくなってきた。

「エマさんにとって可愛いは馬鹿なの?」

『まあ近いでしょうね』

「そんなあ」

 思わずがっくりと項垂れた。

 頭の上から『今のあなた少しかわいいですよ』と声と細い指が降ってくる。なるほどこういう感覚か。

 

「じゃあさ…もうそれで良いから、もっと馬鹿になって。俺の前でだけ、お願い。俺も一緒に馬鹿になるから」

 

 一瞬場がしん、と静まり返った。気がした。

 あれっと顔を上げると、ただでさえ丸い瞳が見開かれている。心なし周囲の客もちらちら見ている気がする。

 なんだ?とその様を見ていると、視界が白くなる。伝票の紙を投げられた。

『もう帰りますよ』

「えっ」

 確かに食べ切ったけれども。

 先を歩くエマの表情は見えない。

『外で何てこと言うんですか。あなた本当に馬鹿です』

「俺がかわいくなってどうするんだよ〜」

『馬鹿。どうしようもない』

「ちょ、ちょっと待って」

 会計に止まった三村を置いてエマが先に店を出ていく。

「ご馳走さまでした」

 追いかけようとして急ぎ会計を済ませながら店長に挨拶する。

 見慣れた初老の店長は、静かに「こちらこそ」と返した。