(食べ物の恨み篇)
冷凍庫の中に入っていたパピコを帰宅直後に一本、そのことをすっかり忘れて風呂上がりにもう一本。
確かに俺が悪い。二人で分けようと思っていたのにと彼女がむくれるのもまあ分かる。
でも、ちょっとしつこ過ぎるんじゃないか。
気付いた彼女がそれを指摘してもう丸一日、次の日の夕飯時になっていた。まさかまだ怒っていると思っていなかった俺は帰って来た直後その考えが甘かったことを思い知る。
近寄るとぷいと視線を逸す。腕を伸ばすとひらりと躱される。
アイスくらいまた買ってくれば良いのにと独り言ちると、しっかり聞いていた彼女は『そういう問題じゃないです』と余計にムスッとした。昨日謝ったのになあ。
「地獄耳」
『地獄に片足突っ込んでる人間に向かって何を今更』
彼女の―エマの怒りのツボは未だによく解らない。
偶にこういう細かい所をねちねちと引きずり、今ひとつ原因が判らないままケロリと機嫌を直してしまう。気まぐれと言えばそれまでだが、振り回されるこっちの身にもなって欲しい。
だが、幾ら怒ってもエマは出て行くとか、別れるとか、そういうことは絶対に言って来なかった。だからある意味甘咬みのようなものかもしれない。そう考えている時点で俺は彼女に対して大分甘いと思う。
『今日も遅かったです』
「仕事だって」
『遅くなるんでしたら一言でも良いので連絡が欲しいです』
「そんな余裕も無かったの。仕方ないでしょ」
『………。』
「怒ってる?」
『怒ってません』
嘘つけ。怒ってる時はいつもそう言う癖に。
ただ、残念なことに彼女はこんなに怒っていても可愛かった。膨れている頬をこう…両側からむちゅっと潰してみたい。多分そういう気持ちはすっかり俺の顔に出ていて、『何ニヤニヤしてるんですか』とエマの顔が余計に険しくなった。
「だってエマさん笑っちゃう位しつこいんだもん。そんなに言うなら最初から自分の物には名前くらい書いておけば良かったんじゃないの?」
少し苛めたくなるこの気持ちは世の男性諸君ならきっと理解してくれると信じている。普段は澄ました顔で外に出せばにこにこと愛想を振りまく彼女が、家の中で自分にだけ見せる怒り顔。そう考えると結構嬉しいのだ。無駄に構い倒したくなる程に。
恐らくこういう態度がエマから見たら”反省していない”と取られているのだろうけど。
『…判りました』
何が判ったのかエマは立ち上がった。不貞寝するらしい。もうこうなると笑いが止まらなくて、肩で笑いを押し殺しながらおやすみと言って見送った。エマからの返事はなかった。
「…ふう」
一通り笑ったところで俺も立ち上がった。あまり機嫌を損ねるのもまずいので彼女が残していった家事を片付けておくのだ。彼女が次に目を覚ました時に余計なストレスになるものが残っているともうどうしようもなくるなる。
昔の自分を知る人にこんなことをしていると知られたらかなり笑われそうだが、こうやって過ごしている内にいつの間にか一通りの家事はそれなりにこなせるようになっていた。食器を洗って、干されていた洗濯物を回収して、風呂は…自分が使い終わった後で良いや。眠れる小さい獅子を起こさないように、静かに手際良く。
一通り終わった頃には日付が変わろうとしていた。
念の為そろそろとベッドに近寄って確かめるが、エマはすっかり寝息を立てている。寝たふりではなさそうだった。同じベッドに入っておいて何もしないというのは喧嘩の真っ最中だからという訳ではなく、これは普段からこういうことになっている。
エマは此方に背を向けて眠っていた。同じ向きに横たわると彼女の身体はすっぽりと収まる。これで今までよく我慢しているよなあと思いつつも、地味に家事で疲れた身体はあっさりと眠りについた。
次の日、やけに機嫌の良いエマに起こされて目を覚ました。
今日も今日とて自分よりもかなり早く起きていたエマは既に朝食の用意も終えていた。何故彼女の機嫌が直ったのか理解不能で、家を出るまで俺は終始頭の上に?を乗せていたと思う。
『私が大人気なかったです』
『今度から大事なものには名前書いておきますから』
嫌味ではなく本心から言っているように感じた。腑に落ちないまま家を出て学校に着くと、更に腑に落ちない事態に襲われて俺は頭を抱えることになる。
生徒も先生も何だか様子がおかしい。
先生方は含んだような笑いで此方を見るし、生徒達は黄色い声を上げたり妙な顔をしたりする。引き止める生徒も居たが、何か言いたそうな顔をしながら「いえ何でもないです」と立ち去るばかり。寝癖でも付いているのかと思って何度も鏡を見たが、特にそういったものも見当たらない。
結局何が何だか解らないままだった。
「…あ」
「おや」
その日の帰り道、昔受け持った生徒にばったり遭遇して少し話をすることになった。
ふらりと入ったファミレスの店員と受け答えする元生徒はすっかり青年になっていて、他人と触れ合うことに吐き気すら覚えていた頃があったとは思えない程に頼もしくなっていた。堂に入った和服が余計そう感じさせたのかもしれない。
「見違えたね。背も伸びたかな?」
「やだねえ先生褒めるのは背丈だけかい」
飄々とした口調とその口元を隠す扇子の動きだけが当時のままだった。
当時を懐かしみ、辺りがすっかり暗くなるまで数時間話し込んでしまった。
店を出た後も途中まで同じ方向だったので並んで歩いていると、その青年ははたと立ち止まって笑い出した。
「先生、それ悪戯ですかい」
青年は訳知り顔で「うなじ」とだけ言った。
「彼女さんは大事にした方が良いですよ」
「え…」
「それじゃあまた」
ちょ、ちょっと待ってくれ。まさか。
彼と別れ、足早に家に帰ると満面の笑みを浮かべたエマが待ち構えていた。ただいまもそこそこに洗面台に向かう。
『どうしました?』
背後でエマが声を押し殺して笑っていて、俺は明日からどういう顔をして学校に行くべきかとやっぱり頭を抱えた。
『今度から大事なものには名前書いておきますから』
洗面台と手鏡を使って何とか確認したそこには、赤い文字で小さく”たべちゃだめ”と書かれていた。