(デレるエマさん篇)
あれは小学校何年生の自由研究だったか、標本を作ったことがある。それも蝶の標本をだ。
普段は友人達と共に虫篭を片手に昆虫を追い回したものだったが、あの時ばかりは何故か蝶の方に興味があったのだ。正に気まぐれである。
ピンでしっかりと羽を留められた蝶達は、息絶えるまでコルクの上でふるふると身悶え続けていた。震える羽からきらきらと澱粉が落ちて行くのがとても綺麗だった。
「苦しい?」
今、それを思い出している。
身を捩る肢体に体重をかけていく。彼女の上に乗るのは今日が最初で最後になるのだろう。彼女は酷く驚いた様子で、俺の腕を指先が白くなる程握りしめている。ぷつりと静かに爪が食い込み血が流れていくが痛みは無い。痛覚なんて適当なもので、脳が他の感情や処理を優先している場合はまるで感じなくなるものだと改めて実感する。
ふと、この子は苦しいのだろうかと思った。
見た所苦しそうだ。しかし、もし彼女が苦しみよりも殺される恐怖や悲しさの方を強く感じているとしたら、そんなに苦しくもないかもしれない。だから尋ねた。
「(とはいえ、それを君に答えさせる気は無いんだけどね)」
さようなら愛した人、悪いのは君自身だ。今際の際が美しかったことだけが君の唯一の救いだろう。
濁った音が頸椎が折れたことを知らせ、俺はかつての恋人から離れた。
…さて、あの人を呼ばなくては。
昔はやってしまった度に冷や冷やしていたものだったが、今はもうそういった感情すら薄れている。だってあの人が現れたから。金さえ積めば俺の都合の悪い所を全て浚ってくれる便利な女。
携帯を取り出して慣れた番号に電話をかけると、ピーという電子音がして死体が喋り出した。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
そして俺は漸く、自分が誰を殺したのか知った。
目を覚ました時三村は既にベッドから居なくなっていた。
上手く動かない全身をぎしぎしと鳴らしながらエマは考えた。悲しい程に朝が弱いことを自覚しているので、エマはなるべく早めに起床することを心掛けている。彼より遅く起きたのは非常に珍しい。
起き抜けの肌にひやりとした空気が刺さる。ブランケットを頭から被ってリビングに行くと、まだ寒さが抜け切らない季節だというのに三村はベランダに出ていた。
『怖い夢でも見ましたか』
「…まあ、そんなところかな」
振り向かずに答えた三村の広い背がひくりと震えたように見えた。
『ふうん』
エマもベランダに出た。ベッドの中で暖まっていた身体からどんどん熱が出ていくのが判る。
『煙草吸うんですね。知りませんでした』
今更知った。ばつが悪そうな苦笑いで肯定してくるあたり、エマの前での喫煙は遠慮していたのだろう。風と共に紫煙が燻る。
「君の首を締める夢を見た」
敢えて特別な感情を込めず淡々と告げているように聞こえた。
紫煙の隙間から覗く三村の瞳は余りに底冷えし切っていて、エマは初めて彼の依頼を受けた時を思い出した。
「殺したのが君だって頭の何処かで既に知ってる筈なのに、夢の中の俺は君を電話で呼びつけようとするんだ。“死体処理はエマさんに頼まなきゃ”って。…馬鹿だよね」
言いながら、三村はずるずると手摺に突っ伏した。
『それで、どうしたんですか』
「判らない。電話が繋がらないと気付いた所で目が覚めた」
『…そうですか』
それ以上何も答えられなかった。
いつか自分もこの男に殺されるのだろうか。考えたことが無いと云ったら嘘になる。
「エマ」
しかし、出会った時点で三村が”そういう”男であることは解り切っていたことだ。エマとしてはそれを承知の上で今の関係に甘んじることを了承したつもりだった。
「俺から離れないで」
どうやら全く伝わっていなかったらしい。
否、口に出して伝えないといけなかったんだろう。言わなくても伝わる等という甘えを、三村に対して無自覚に持っていたと気が付いた。
捨てられた子犬のようなとまでは行かないが、顔を上げた三村はそれなりに寂しそうな顔をしていた。それが思いの外可愛らしかったのでエマは少し笑う。
「…今結構真面目な話してるんだけど」
煙草を咥えたままの唇が不機嫌そうに尖る。ぐしゃぐしゃな寝起きの癖っ毛も、煙草を覆う掌もいやに新鮮だ。偶には自分も素直になった方が良いのかもしれない。
『三村さん、私ね』
あなたになら殺されても良いのよ、なんて古い台詞を口に出して言う日が来るとは思わなかった。さっきまで冷えていた筈の身体が急に熱くなっていく。
やはり言わなければ良かった。もう一回言って、こっち向いてとせがむ三村を置いて室内へと逃げ帰った。