次はエクリュベージュで

 

 

「ごめん!」

 エマはぽかんとした顔で三村と床とを交互に眺めた。

 

 お気に入りだったのは見ていれば判る。番のような大きいカップとそれに収まる一回り小さいカップ、同じ色の陶器のポット。エマが移り住むようになってからいつの間にか我が家に増えた物だ。それをあろうことか、思い切り滑らせて全て豪快に割ってしまうなんて。

『血は出ていませんね』

 そのまま動かないでくださいと言うとエマは破片を片付け始めた。確かに三村は怪我はしていない。片付けを手伝おうとするともう一度『動かないでくださいね』と言われる。

「わざとじゃないんです…」

『分かってますよ。そのスリッパも駄目ですね』

 飼っているんだかいないんだか未だ判然としない猫がよくじゃれる毛の長いスリッパだ。確かに細かい陶器の破片を巻き込んでいる可能性が高かった。

 三村はもう一回わざとじゃないんです、と言った。

 

 

『そろそろあなたも連れて行こうかとは思っていたんですよ』

 茶葉やツールは何処で調達しているのかと常々疑問ではあったが、遂に連れて行ってくれるらしい。

 少し地下鉄に乗り、かなり細い路地を進み、相当階段を降りたところにそれはあった。重厚な扉に細い指がかかったので背後から開けてやる。

 外は暗い色調だったが中はかなり白っぽかった。一瞬コントラストに目が眩む。

「おや」

 カウンターの奥で枯れた老人が一人眼鏡を拭いていた。拭いた眼鏡を掛けると目が合う。鉤鼻で彫りが深い。

「今日はどうされましたか」

 明らかにエマに対して言っていたが、視線は三村から外れない。珍しそうに頭から爪先まで眺められた。

『ジャンピングポットまだあります?』

 言いながらエマは自然に三村の腕に絡んだ。それで納得行ったのか老人は三村から視線を外し奥へと引っ込こんで、また出てきた。

「幾つかありますが、丸い物が一等良う回りますな」

 カウンターに並べられた物はフラスコみたいだった。家で壊れたのはどこでもよく見る形のポットだったが、同じ使い方ができるのだろうか。いつの間にか白い手袋を嵌めたエマがトントンと側面を軽く叩いたり、持ち上げたりしている。

 三村には善し悪しが分からないので、エマが吟味している間に店内を回ってみることにした。ここまでの道中を思うと狭いかと思ったが中は意外と広く、どの棚も高い。スライド式の梯子が取り付けられていて、紅茶屋というより図書館のようだと思った。パッケージに書かれている言葉は英語が多いがアジア系の記号のような文字も結構多かった。どこの国のものだろう。

 白地にオレンジの紋様が描かれている缶の一つを手にとって眺めていると、背後でエマが商品を決める声がした。缶を持ったままエマのもとに戻る。

「試飲はどれになさいますか?」

『そうですね…あ、』

 戻ってきた三村が手に持っていた缶を見ると、エマはこれにしますと言った。缶を渡すと老人は嬉しそうにまた奥に引っ込んでいった。

「試飲あるんだ」

『だって、淹れてみてやっぱり違うってなるの嫌じゃないですか』

 そういうものか。ツール一つでそこまで変わるかなと思うが、通はそこが通たる所以なのかもしれない。

『それより、私の味覚教育も漸く実を結び始めましたね。どうやってあれを嗅ぎ分けたんですか?』

「さっきの缶のこと?いや、何となくだけど…」

『インドの最高峰ブランドですよあれ』

「えっ」

 そんな物を試飲に出して良いのだろうか。エマに聞くと『あの人はオタクだからその方が喜びます』とあっさり返された。

 ほくほく顔で老人が戻ってきた。先程のポットに茶葉だけが入っており、それとは別にステンレスのポットも持っている。どうもお湯を注ぐところから見せてもらえるらしい。

 まずティーカップに湯を注ぐ。これはエマも家でやっている。カップを温めないと美味しくならないらしい。珈琲好きの友人も同じことを言っていたので、お湯を扱う飲み物の共通項なのかもしれなかった。その後高い場所から丸いポットにお湯が注がれる。家にあったものと違って透明なので、中の動きがよく見える。と同時に”ジャンピング”の意味がよく解った。

「スノードームみたいだ」

『良いこと言うじゃないですか』

 距離を付けてお湯を落とした効果もあるのだろうが、それ以上に丸い形状がふわふわと踊る茶葉をいい具合に上へ上へと押し上げているようだ。まろく甘い香りが広がっていく。

『面白いでしょう。次はこれって決めていたんです』

 店員でもないエマが何故か自慢げに言うのがかわいい。老人は頬杖を付いて満足そうに踊る茶葉を眺めている。見た目にそぐわず仕草が子供っぽい。

「この葉はインド政府が国賓にお出しする事もあるようですよ」

 うっとりしながらついでのように話す言葉にそうなんですかと軽く返したが、内心三村は肚の中でひええと叫んでいた。高級品じゃないか。

『ねえ鳶。お店にもこれ出してくれませんか?』

「嫌ですよう。このランクは此方に辿り着ける方のために取っておきたいです」

『よく言いますよ。道楽と本業が売上と反比例している癖に』

「それを言われてしまうと痛い」

 店?ここと別にやっているところがあるのか。

 店…紅茶の…?

「…あ!」

 思わず大きい声が出てしまった。

「この前の、レモンティーのところのマスターじゃないですか」

『こっちは双子の弟。あちらが兄です』

「どうも。よく聞いていますよ」

 パーツは同じなのに顔つきが全く違うから気付かなかった。

「あちらは最初は道楽だったんですよ。わたくし共は元来こっち、輸入物の仕入屋でしてね。両方通ってくれる若い人はこの子くらいなものです」

『だったらこんな辺鄙なところに看板構えなければ良いのに』

 規定の待ち時間が終わったらしい。

 店員はマドラーでポットの中身を一回転させると、湯を捨てたティーカップに紅茶を注ぎ始めた。色がかなり紅い。

「だって、こちらの方が秘密基地みたいで格好良いでしょう。鷹は現実主義でどうもいけません」

『本業を秘密基地にしてどうするんですか、全く…』

 鷹が兄、鳶が弟らしい。この年代の名前にしては珍しい名前だ。

 

 

 試飲をしたポットと、また番のような大小のマグを購入して店を出た。少し雪がちらついている。

「良いお店だったね」

『でしょう。穴場なんですから、人に教えちゃ駄目ですよ』

 特にあの蛇男、とエマが自分で言っておいて虚空を睨む。三村の悪友・愛也のことだ。売れている美容師なだけあって見た目はかなり整っているのだが、何故かエマは彼のことを蛇と称して嫌っている。最も、向こうも向こうでエマのことを性悪猫と言っているのでおあいこなのだが。

「それは多分大丈夫。あいつどちらかというと珈琲党だから」

『珈琲も美味しいんですよあそこの店は…とにかく絶対教えちゃ駄目ですからね』

「はいはい、分かったって」

 愛也の名前が出ると途端に年相応の拗ね方をするので少し面白い。エマも面白がられているのは分かっていて、それで余計に不機嫌に拍車が掛かるのだろう。

 あまり怒らせても後が怖いので、そこそこに話題を変えることにした。

「そういえば、おじいちゃん達に俺のこと何て言ってたの?」

 よく聞いていると言っていたので気になっていた。

『それはひみつ』

 するんと懐に入ったエマは『寒いですね』と呟いた。折角なので替えのスリッパはお揃いにしようか?と言うとエマは腕の中でくすぐったそうに笑った。