(猫と扇風機篇)

 

 酷く追い回されていた。

 無論此方からも追い回す事もままあったので、どちらかと云うと互いに奪い奪われる日々と表現した方が語弊が無いだろう。

 とにかく、数年間はそういう日常が常となっていた。

『あああああ~…』

 他人の寝言に返事をしてはいけないといった事実や、炬燵に入ってから敢えてアイスを貪る事の幸福や、

「扇風機にあああってやると喉痛めるらしいから止めた方が良いよ」

 帰ってくる場所、人が居る安定感など知らなかった。

『そういう爺臭い迷信ってあまり好きじゃないんですよね』

「あのな…」

 崖の縁に立ってにこやかに手を振らなくてはならない時期があった。

 だけど、そういう時期があったからこそ、今得られたものの価値に気付ける。どうやら世の常は”そういうこと”になっているらしい。と、猫はぼんやり思う。

『じゃあ今度あああって出来ない扇風機買ってきましょうか?』

「あああって出来ない扇風機とか扇風機じゃないから」

 いつかまた、追いかけ追い回される日常に逆戻りすることになるかもしれない。最近はそれが少し怖い。自身の安全を危惧している訳ではなく、この日常が壊される事に対する虞れだった。

「まあ、買い物なら付き合ってやらないことはない」

『ふふ…何ですか、その上から目線』

 でも、それを打ち消してくれる人が居るから。

 今のところそれが最も大きな強みであり、拠り所となっていた。

 

 そして次の日しっかり喉を痛めた猫は、また一つどうでも良い知識を身につける事となった。