カラフル

#000001

 

#000001

 手のひらに収まるか収まらないかの大きさの硬質なカード。

 それは、この区画内に出入りする人間なら誰もが所持している筈の物だ。ICチップが埋め込まれた学生証は、この大学に於いて特定の研究棟に出入りする際の通行証の役割も果たしていた。

 カードは研究棟の外にぽろんと落ちていた。持ち主は次からこの研究棟へは立ち入ることが不可能だろう。夕凪和秋は少し考え、やがて裏返しになっていたそのカードを拾い上げた。

 『横瀬綾』と書かれたそれに顔を近づけて観察する。既に見慣れたマークが右半分に一色で描かれており、チップによって一部が少し盛り上がっている。学年を示す情報は無い。学部は和秋と同じものが印字されていた。

 学年をカードに示さなくなったのは2年前だ。留年が多い一部の学科内で学年表記の更新処理が手間だという声が挙がり、それに便乗する形で個人情報等の配慮もあって、表記が消えた。つまりこのカードは新入生か2年生の物だ。これである程度は絞れたことになる。

 しかし、持ち主の候補が絞れたことによって、和秋に何かメリットが発生する訳ではなかった。大学生は忙しいのだ。

「あのー」

 持ち主を捜して無為な探偵ごっこをする時間と遊び心を和秋は持ち合わせていない。研究棟から出てきたのだって、きりの良い所で渋々切り上げたからだ。これからサークル活動が待ち構えている。

「あのー」

 横瀬綾。ヨコセ・アヤ、か。

 見たところ書かれている名前は女性名で、もしかしたらこれを機に新たな出会いが…と、性欲旺盛な健全な大学生なら考えるかもしれない。だが和秋は違っていた。余計な感覚を削ぎ落とし、ある一つのことに集中することを日常的にこなしていた彼にとって、性欲はそこまで厄介な代物ではなくなっていた。

「ちょっと!」

「何」

 だから、こういった見ず知らずの学生は無視するに限る。

 相手にしたくなかった理由は二つあり、まずその声の主は明らかに男のそれであったことにある。つまり今抱えている厄介事の登場人物ではないと判断した。次に、視界の端に映るその青年は目の覚めるような金髪をしていた。はっきり言って一目見て趣味が合わない世界の人間だと思った。

 それでも彼と目線を合わせたのは一応の良心というか何というか。向き直って見ると、しつこく声をかけてきた青年は髪の色に関わらず全身の全てが派手だった。カラーモザイクのリュック、蛍光のスニーカー、基本原色の服。伊達眼鏡のような大きな縁の付いた眼鏡だけが黒い。

「それ、ここで拾いました?」

 イマドキ、という四文字が咄嗟に頭を過って多少辟易する。構内で出くわした以上はそこまで年に差は無い筈だが、悲しいかな、大学という場所は一年居れば見た目に一年、精神的には三年分摩耗するように出来ている。自分のような理系の院生はその典型モデルである。

「…研究棟出た所で拾ったけど」

「あ、やっぱり?も~むっちゃ探したんすよ。あちこち走り回っちゃいました」

 彼女にでも頼まれたんだろうか、確かによく見ていると彼の肩は微妙に上下していた。

「悪いけど、本人じゃないと渡せないから」

 へらりと笑う甘い顔にうっかり流されそうになったが、学生課以外の人間に渡すなら、本人でないとその気は無かった。二次紛失、悪用、どちらの意味に於いてもだ。彼氏だろうが何だろうが関係ない。研究棟の中には学生だけに留まらず、此処以外でも経済活動を行う教授陣の論文草案も転がっている。何か起こったら少なかれ自分にも責任が生じるだろう。

「え?いや、だってそれ…うん。やっぱり俺のっすよこれ」

 モーション無しで顔が近付いて来たので思わず一歩下がる。彼はパーソナルスペースという理論を全く気にしていないのか、そのまま和秋の腕をひょいと掴んでカードに書かれた名前を確認した。横瀬綾。やはり男の名前には思えない。

「いや、これは女の名前だろ」

「ああそれよく言われるんすけど、リョウです、リョウ」

 一瞬「稜」か「陵」と見間違えているのかと思ってもう一度カードを見直したが、そこにはやはり「綾」と書かれていた。

「子供の頃はそれでよくからかわれたんすよねえ」

 青年は目が痛い色のリュックを前に持ってきて何やらごそごそすると、和秋に保険証を差し出した。

「ねっ?」

 YOKOSE RYO と振られたローマ字を以って、和秋は漸くそのカードを青年に…綾に手渡した。

「漢字に弱くて悪かったな」

「いや、大体いつもこんななんで大丈夫っすよ」

 やっぱりへらりと笑う子犬のような顔が、やけに鬱陶しかった。