(成長期完了篇)
『三村さん』
以前より少し艶が出た声で自分の名前を呼び、もう痛くないのと嬉しそうに話す少女はかつての子供ではなくなっていた。
その間たった半年。たったそれだけで、子供だった彼女はもう何処かに行ってしまった。
『背、伸びたでしょう?』
問題は二つある。
一つは、あまりに急速過ぎた成長に身の回りの物が合わなくなってしまったことだ。特に服。いやこの際はっきり言おう下着だ。
二つ目は、彼女自身が自分の身体の大きさを未だ把握しないで動いていること。
『こうして抱きついてももうあちこち痛くないわ』
もう一度説明するが彼女は成長した。どこもかしこも。もうそれは、その、見事に。
…いや。いいや、もう良いだろうはっきり言ってしまおう。
その成長した身体で、下着も着けずに、どこもかしこもぺったんこだった時と全く同じように抱きついてくるのを今すぐ
「やめてくれない?」
『なんでですか』
終わったんですよ成長期、とエマは頬を膨らませる。ああ勿論嬉しい。この数ヶ月はらはらしっ放しだった。いつか収まるとは思っていたが、それでも女の子の身体だしやっぱり心配だった。
これまで動けなかった分の元を取らんとばかりに、エマは活発に動き出した。それ自体は別に構わない。良いことだ。だが、
「解った、解ったから。とりあえず離れて」
『嫌よ。成長痛が酷くて出来なかった分、きっちり取り戻させて頂きますからね』
これだ。ぶかぶかな三村のシャツを下着も着けずにぽろんと一枚着ただけで抱きついて来て、これでもかとばかりに柔らかいあれそれが押し付けられる。本当に勘弁して欲しい。
ぐっとその肩を掴む。押す。ぐぐぐ。駄目だ。彼女はこうなると梃子でも動かない。三村は観念して、自身の意識が妙な方向に向かないように頭の中で素数を数え始めた。
「まず下着を買いに行かなくちゃね。それと、俺以外にはこういうことしちゃ駄目」
よいしょ、と声を出しながら座り、額にかかった前髪を払って三村は言った。エマはピンクのが欲しいです、と返す。身体は急速に大きくなったって彼女はまだまだ子供なのだ。
『三村さん、お世話になりました』
顔だけを離してエマは言う。
「どうしたの急に改まって」
『いえ、本当に』
あなたが居なかったら私きっと駄目でした。少し恥ずかしいのか、エマは目を伏せて静かに告げた。
『今までありがとうございました』
「何だよ、良いってば。ちゃんと大きくなってくれて俺も安心したよ」
三村がそう言って笑うと、エマはほんの一瞬伏し目がちな瞳を見開いた。三村が気付かない程の一瞬だった。その表情を隠すように、エマは再び三村の胴に腕を回した。
次の日、エマは失踪した。
外を探そうとして飛び込んだ玄関には一枚の封筒が置かれていた。中には通帳とメモ。中に書いてある額はとんでもない桁数で、添えられたメモには几帳面な字が並んでいた。
『さようなら。この通りお金はありますので私のことは忘れてください』
初めて声を掛けたあの公園にも、二人でよく行った商店街にも、彼女の学校にも、まさかと思って自分の大学にも行った。どこをどう走り回ってもエマは居なかった。それどころか、家の中の彼女が居た痕跡すら完全に消し去られていた。
こうして、三村は妹のように思い始めていた少女を突然失った。
聞こえるか聞こえないかの音量で少女は男の名を呼んだ。
反応が返って来ないことを念入りに確認してから、少女はベッドから抜け出して男を見下ろす。如何にも能天気といったような寝顔に笑いが込み上げるが、やがてそれも掻き消された。
ぬるま湯の中に身を置いて良い期間など、とうに過ぎていた。
体の痛みのせいにしてその期限が伸びた時、ほっとした自分が居た。そのことに気付いた時、少女は当初の目論見が失敗したと悟って唇を噛んだ。もっと狡猾にやりきれると思っていた。彼女が構想を練った当時の、幼さ故の浅はかさだった。
少女は男の無防備な頬に自らの唇をそっと寄せようとしたが、少し考えて何もせずに身体を離した。もし、もしも何かが間違ってしまった時、また会うことがあるかもしれない。その時のささやかな愉しみとして取っておこうと考えた。
着信音もバイブレーションも鳴らない端末が点滅して、外に迎えがやってきたことを知らせていた。クライアントがいい加減痺れを切らしたのだろう。
ガチャリと音を立てて玄関を開けたが、それでも男が目を覚ますことはなかった。
少女は安心する。もう振り向いてはいけないと思っていたし、彼が目を覚まさないことがそれを後押ししているように感じた。
少女は長くなった四肢を伸ばして、アパートの二階から飛び降りた。