Samsara Nachtmusik

Rein:1

 

Rein:1

 その自催眠誘導装置がラボに運び入れられた時、医療班の面々は俄に沸き立った。

 

 自催眠誘導装置は洗脳汚染を受けた患者に対して用いる医療器具である。人一人がすっぽり入れる位の大きさで、セラミックフレームのありとあらゆる場所から電極の配線が伸びている。青みがかった半透明のガラスが埋め込まれたスライド式のシャッターが前面を覆っており、そこを閉めるとどことなく羽を畳んだ梟を彷彿とさせた。

 この装置を用いた治療は東亜民華国では保険適用外である。他国で開発され、市場に出回ってから十年にも満たない為だ。副作用等のリスクが全て把握できていない以上、公的な医療機関である生体中心国府では採用できない。

 新しいバージョンが開発されたという知らせを受け、実験目的としてラボで一台購入した。

 

 生体中心国府・八倉ラボは、主に電脳治療に使用する医療機器の開発を行う研究チームである。研究員は便宜的に医師免許を取得しているが、実際の治療行為には殆ど関わっていない。

 

 リンカ・シオンは東南区域から単身ラボへとやってきた研究員だった。

 「だった」という表現に語弊は無く、現在の彼女の肩書は単なる「患者」である。自催眠誘導装置の人体実験に立候補し、自身の深層意識に再帰的に潜り続ける過程において自意識が完全にロストした。ラボの所長である八倉の判断によって彼女は意識を失ったままの状態で緊急凍眠処置を受けた。

 分断されてしまった自意識との紐付けは遂に叶わず、彼女はラボの治療室から集中治療班へと居場所を移した。

 

 

 

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 とてもくらい。どこまでもさむい。

 

 まず異常が起こったのは画像処理だった。ユーザインターフェースがちらつき始め、RGBの乱拡散と多大なノイズがリンカの視界を覆う。おかしいと気付いた時には既に外部とのコンタクトラインが途絶えていた。ノイズによる汚染から身を守るため保護膜に入ってやり過ごしたが、辺りが静まった頃にはすっかり座標が判らなくなった。

 肉体との紐付けを視覚的に表していたモジュールが壊れて消えた。完璧にシグナルロストである。現実世界の自分は良くて意識不明、最悪脳死判定を食らっているかもしれない。肉体から乖離して意識だけの存在になった自分は無防備そのもので、自己の結びつきは器から零れた水に等しい。

 

 だが悩んでいても仕方ない。周囲の安全を確認し、リンカは保護膜を解いて伸びをした。

 無論周囲には何も無い。外部の音すら届かない。五感を司る階層よりも更に奥まで来てしまったということを如実に物語っていた。

 深層より深い場所。ゴーストと呼ばれる曖昧な実体に肉薄した、生と死との袂を分ける最後の砦。話には聞いていたが、普通に生活している分にはまずここには辿り着けないだろう。ある意味勉強になる展開である。

 最も、ここで学んだことをこの先活かすことが出来るかは絶望的であったが。

 

「さーて、どうしよっかなあ」

 

 口に出して初めて自分の声は通ると気付いた。これは僥倖である。声が通りそれが聞こえると言うことは、ここまで来てもまだ自意識が強く残っている証に他ならない。これ幸いとしきりに話すことにした。ボイスレコーダーを回して録音することも考えたが充電が惜しい(生還出来るか否かという瀬戸際にも関わらず充電を気に掛ける自分が可笑しかった)。

 馴染みあるポップカルチャーを口ずさみ始めて幾らかの時間が経過した所で動きが出た。

 

 

「光……。」

 

 移動しているような気はしていた。

 薄ぼんやりとだが幽かな光が漏れている。球体に見えるそれにどんどん引き寄せられていると気付いた。あれは死か。だとしたら驚いた方が良さそうだった。死は闇で瞬く光が生命、死は光が闇に還ることだと思っていたからだ。今の状況は真逆である。

 光が近づいてくる。先ほどまで僅かな大きさであった玉の子は既にリンカの身長を悠に超えており、その上未だ距離が縮まらない。かなり大きい光源である。

 

 いずれにせよこのまま自分は死ぬのであろう。不思議と怖くは無かった。想像していたものと全く違う光景に圧倒されていたのが大きな理由かもしれないし、そうではない別の理由かもしれなかった。

 眩しい。生まれてからずっと洞窟の中で生きてきた蝙蝠が突然外に出たらきっとこんな感じなのではないかとすら思える程だった。那由多広がる闇にぽっかりと一つだけある巨大な光球。何の法則性なのか、独りでに吸い寄せられる身体。

 その関係が宇宙によく似ていると気付いたところで意識が途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次に目が覚めた時辺りの光景はがらりと切り替わっていた。


 豊かな植物達と鳥の囀りが飽和して柔らかい音波を生み出していく。海が近いのだろう、廃油の匂いがしない純な潮の匂いがした。リンカが生きていた世界に蔓延っていた鉄屑の陰りは一切見当たらない。モニタ越しの資料でしか見たことが無かった、まるで手の付けられていない自然が視界一杯に広がっていた。

 今際の際とはいえ自分の脳も妙な光景を見せる物だとリンカは感心した。と同時に、冗長なエンドロールは果たしていつ終わるのだろうという気持ちも湧く。どうせなら一思いにさくりと死にたい。緩々と死を見せつけられてもどうしようもないのだし、今更じたばたする気も無い。

 立ち上がるとどうも視界が低い。生体中心に入る前の頃の身体に戻っているようだ。そういえば丁度この位の年頃で全身義体を使うようになったのだ、とリンカは回想した。最後は生身で死にたいなどという深層心理が自分の中にあったことが面白い。

 

 さて改めてこの環境だが、中世の西洋だと思われる建造物がそこかしこに立ち並んでいる。煉瓦や石畳などの既に失われた機能美。遠景には活き活きとした街並みも見える。思い切って街の方へ探索してみようかなどと呑気に構えていると、不意に人の気配がした。

 咄嗟に近くに生えていた木に登って隠れた。素肌に引っかかる木の幹の感触がいやにリアルでぞわりとしたものが走る。

 

 歩いてきたのは甘い桃色の髪をした青年だった。