Blue

(おばけなんてないさ篇)

(珍しくエマさん視点)

 

 シャワーを浴びて目を開けた瞬間、目の前に青白い女の顔があった。

 一瞬思考が停止して、それからエマは少しずつ冷静になった。私、バスルームの鍵を閉め忘れたのかしら。それにしても随分と顔色が悪い女ね。しかも顔が近いのだけれどこの女はレズなのかしら。

 シャワーを止めるのも忘れそのままゆっくりと視界を下に移動する。女の腹にはざっくりと無造作に家庭用の包丁が突き刺さっており、そこから垂れるゲル化した血液はシャワーの温水に溶けて排水溝へと吸い込まれていく。その時点でようやく妙な冷静さから解放され、あ、これは流石にこの世の物の類ではないのかもしれない、という結論に至った。

 とりあえずお湯が勿体無いので止める。自分が移動すると女の首はゴキュリと音を立てて追従して来る。何が何でも目線を外さないようだ。試しにどこぞのアーティストのような動きをしても良いなと思ったが、あまりに滑稽に感じて止めた。鋼のような合理主義を自覚するエマではあったが、これは折れた方が良さそうだった。目の前に居る女には見覚えがあり、しかもその女をさくさくと解体して「商品」にしたのは過去の自分自身であったからだ。

 此方を表情の読めない貌で見つめる女の名は、確かアオイと云っただろうか。

 今更悲鳴を上げるのもなあ、という事で、エマは入浴を続行した。

 相変わらず洗い場に居るアオイは此方を見ているが、逆に言うとただ見ているというだけだ。死体という死体には大体見慣れているので今更嫌悪感も感じなかった。

『あなたが腐ったゾンビだったら、一緒にお風呂は躊躇いますけどね』

 特に打算もなく幽霊相手に話しかけ、結局エマはその後の入浴中の日課(スキンケアだの、ストレッチだの)をきっちりこなした。

 

 実を云うと、アオイの霊らしきものとの遭遇はこれが初めてではない。

 三村と自分との関係がはっきりと「恋人」に変わってから数回、エマはこのアパートの中で何度か彼女の黒い影の存在を認識している。理由は察することが出来たし、一層面倒なことになりそうだったから三村にも告げていない。何より、気のせいか、自分の脳の誤作動だろうと思いたかった。

 ただし、これまで見たアオイの姿はいずれも視界の端だったり、少し目が眩んだ瞬間だったりと刹那的な遭遇だけだった。はっきりと目の前に現れたのは今日が初めてである。

 

 さてどうしたものかと湯船に浸かってエマは思案した。幽霊というのはエマの辞書によると「この世に未練があって顕在した魂」と定義されている。そりゃ誰だって死にたくはないのだから、死んだこと自体が大きな未練と言えるだろう。そういう意味では、別に自分と無関係な理由でこの女が幽霊になったって何も可笑しい事は無い。

 しかしアオイは明らかに自分を狙っている。三村の前にも現れているなら彼は何かしらの反応はするだろうし、そもそもこういう状況になっている時点で彼女の目的は自分以外に考えられない。かといって、浴室に現れてから30分以上は経過しているのに何か行動を起こす気配も無い。そもそも悪意だの怨念だのが感じ取れない。

『あの、そろそろここを出たいのですが』

 さっきからちょくちょく話しかけてもいるが、それに対する反応も特に無い。これ以上の思考は時間の無駄だと判断してエマは浴室から出た。

「エマさーん、お風呂上がったー?」

 リビングから三村の声がする。この状態で彼を呼んだら彼にはアオイが見えるのだろうか。ホラー映画やゴア映画を観ている様子を観察している限り普通に怖がっていたようだったから、見えたら見えたで大騒ぎしそうだなと思った。

『すいません、もうちょっと待ってください』

 体を拭いて、髪を拭いて、服を着て、それでもまだアオイはエマの横に立っていた。相変わらず無表情で、それでいて目線は絶対にこちらから離さない。

『三村さんの所に行きますよ、私』

 そう告げるとアオイはするんとその場から消えた。ああいう消え方をするのか。知らずとも良い知識がまた増えてしまった。

 

 風呂上がりのアイスは日課ではないが、好きな時に好きなだけ呼びつけられる友人と似ている。

 お風呂で何かあったの?と三村が声をかけて来た。特に態度に出したつもりは無かったのだが、知らず知らずの内に悟られてしまったようだ。彼には言わない方が良いような気がして、浴槽にゴキブリが浮いてましたとだけ伝えておいた。三村はそれはそれで泣きそうな顔になっていた。

 

 深夜に理由も無く目が覚める時は、声なき声に起こされているからだと云う。

 子供のような顔で眠る隣の三村を起こさぬよう細心の注意を払ってエマはベランダへと足を運んだ。ざわつく胸の内は外の空気を吸えば少し軽くなるかと思ったからだ。否、そう言い聞かせていただけであって、ひょっとしたら呼ばれていたのかもしれなかった。

 ベランダに出て、部屋の方へ振り返るとアオイが立っていた。それもさっきまで自分が居た筈の部屋の中に、だ。この場面だけ切り取って考えるとエマがアオイに追い出されたような格好になって少し愉快だ。

 アオイがガラスに手を当てたので、真似して同じ位置に手を置いてみる。それは下腹部の位置だった。見上げると、彼女はこれまでの無表情とは違う、何とも形容し難い表情になっていた。自分でも今の感情を理解し切れていないような、そんな表情だった。

『私はあなたのようにはなりません』

 何となくそういう事を問いかけられているような気がした。きっと心配とも違うし同族意識とも言い切れぬだろうが、訊きたかったこと自体は当たっていたようだ。満足したような顔をして今度こそアオイは消えた。

 冷えた身体を抱きながら部屋の中に戻ったエマは、もう彼女を見ることは無いだろうと思った。