Hi. I’m Chucky:2

(青いキャンディーどこいったの篇)

 

 エマとの連絡が完全に絶たれたまま朝を迎えてしまった。

 眠い目を擦りながら起きて来た幼児に名前を聞いた所、その場にあったエマのスケッチブックに「3manuela」と書いた。

 「3」の意味は良く解らないが、マヌエラ?と呼ぶとにこっとした。幼児の名はマヌエラというらしい。

 朝食も食べさせていない子供にあれこれと詮索を始めるのは気が引けたので、諸々の突っ込み所をぐっと我慢して二人分の朝食を用意することにした。エマが住み着くようになってからは基本的に彼女が用意していたので、いつの間にか調味料の配置が変わっていた。

 あちらこちらを開けては閉めてうろうろしていると、マヌエラがその後を心配そうに付いて来る。可愛かったが色々な意味で素直に喜べなかった。

 やっと揃った調味料を片手に作業しながら三村は考える。彼女は見た所3~4歳で、自分とエマの年齢から考えたら計算が合わない。

 否。そもそもの話、三村は未だエマに手を出していないのだ。一体どうやったらこんなことになるのか。

「目玉焼き好き?」

 マヌエラはきょとんとして首を傾げた。何となくマンチカンを連想する動きである。

 名前といい顔つきといい、もしかすると日本語自体よく判っていないのかもしれない。とりあえず皿に目玉焼きやウインナーを乗せて出してみる。嬉しそうなので良しとする。

 三村はトーストを、マヌエラは白いロールパンをそれぞれ食べた。この年頃の子供は非常に活発だと思っていたが、マヌエラは一寸異様な程に大人しかった。この訳の解らない状況にも関わらず黙々と食べ切り、終わったらとことことリビングに戻って先程のスケッチブックを占領し始めた。

 気付けに濃く淹れたブラックコーヒーを啜りながらその様子を観察する。エマと自分の子供、というよりは、エマの子供の頃そのものを見ているようだと言った方が正解に近い気がする。

 エマの子供の頃、か。文言だけで笑ってしまいそうになる。あの可愛げの無い猫だってそりゃ人間なんだから、幾分かは真っ新な幼年期があっただろうに違いない。そうは判っていても笑えた。

 大分歳が離れてはいるが、彼女の妹という可能性も有り得る。というより寧ろその可能性が一番現実的に思えた。実の妹をトランクに詰め込むというのも中々血の気の引く話だが、彼女のことだから何か事情があっての行動に違いない。

 そうだ、そういうことにしておこう。

 現実的な線が固まったところで使い終わった食器を洗い、マヌエラの手を引いて洗面所に向かった。前に泊まったホテルから頂いてきた使い切りの歯磨きセットを貸してあげたが、あまり長く滞在するようであれば子ども用を買ってあげた方が良いと思う。そういった相談を今すぐにでもしたいのに、やはり昨日に引き続きエマからは何の連絡も無かった。

 寝癖で跳ねる細い猫っ毛を直してあげて、再び手を引いてリビングに戻る。マヌエラは終始にこにこしていて、自身が置かれている謎の境遇に対する疑問は一切持ち合わせていないようだった。

 スケッチブックの下へ駆け寄る途中で盛大にすっ転んでも泣き出さず、ご機嫌のまま静かに絵を描き始める。

 手がかからないのは良いとして、この状態はいつまで続くのだろう。あと偶に此方を見てパパとか言ってくるのを本当に止めて欲しい。胃が捩じ切れそうだった。

 そうだ。携帯はともかく、タブレット端末に何か残しているかもしれない。エマが家の中でほぼ片時も手放さないと言っても過言ではない白いタブレット端末は、寝室の充電ドックに差し込まれたままだった。足早に移動すると、マヌエラが慌ててスケッチブックを抱えながら着いてくる。

「ほら、おいで」

 置いて行くと今度こそ泣かれてしまいそうである。抱き上げた小さい体は少しでも力の入れ具合を間違えたらあっという間に壊れてしまいそうだった。

「はあ…やっぱり俺、君のパパじゃないと思うんだけどなあ」

 ベッドにマヌエラをそっと降ろし、自分もその横に座ってタブレットを手に取った。電源は着けっ放しだ。

≪パスワードを入力してください≫

≪ヒント:逆誕生日≫

≪●●●●≫

 一瞬簡単だなと思ったが見直して首を捻った。“逆”誕生日とは一体どういう意味だろうか。

 壁紙やテーマによるフェイクも考えたが、何処をどう操作してもホーム画面には遷移しなかった。

「マヌエラ、これ分かる?」

 飛んだ駄目元だが一応横の幼児にタブレットを持たせてみる。薄い板が綺麗な絵を見せて動くのが楽しいのか、頻りにぺたぺたと画面を触るだけだった。

 エマの誕生日、自分の誕生日を入れ替えてアタックしても解除されない。痺れを切らし、適当に今日の日付を入れてみることにした。

「(これで解除出来たらとんだ無駄足だよなあ…)」

 滑らかな動作でロックが解除された。

「なんで!?」

 突然の大きな声にマヌエラがひゅっと息を呑む。ごめんごめんと宥め賺し、膝に乗せながらロックが解除されたタブレットを操作する。

 結局逆誕生日の意味は解らないままだったがまあ良いだろう。しかし、ブラウザの検索履歴やメールの一部を覗き見しても手がかりになる情報は見当たらなかった。

 完全に詰みである。がっくりと肩を落とす三村を心配したのか、マヌエラが膝の上で器用に立ち上がって三村の頭を撫でた。

「パーパ」

 撫でたというよりは叩かれたに近い気もしたが、本人的には恐らく前者だろう。

「だからパパじゃないって」

 多分。いやきっと。

 多分を絶対にする為にも何かしら情報を得なくてはならない。勝手に触ってしまってエマには申し訳ないが、元はと言えば彼女の蒔いた種である。

「マヌエラはお絵かきしておいで」

 長丁場になりそうだったのでそう言ったが、マヌエラは頑として膝の上から動こうとしなかった。やがて完全に眠ってしまったので起こさないようにベッドに入れてあげる。時計を見るとそろそろお昼の時間だった。三村はマヌエラをそのままに、タブレットを持ったままキッチンに向かった。

 パスタを茹でる為に鍋に入れた水に合わせてタイマーをセットして、椅子に座る。何だかどっと疲れた気がする。規則的に響くタイマーのチクタクに誘われ、三村は静かに、しかし確実に睡魔に取り込まれ始めた。

 どこか遠くでゴボゴボと吹き零れる音がする。鍋がそのままじゃないか。止めなくてはと頭で解っているのに、まるで見えないクッションにがっしり全身を包まれたかのように指一本動かせない。子供の啜り泣く音もする。マヌエラが起きてぐずっているのではないか?浮遊感に包まれて、その声の出所が判らない。

 嗚呼。目を覚まさなくては。目を。

 

 タブレットから長い長いアラーム音が聞こえた。

 

 

 

 

 

『三村さんっ』

 猛烈に頭が痛い。鉄の鍋でガンガンと内側から殴られているようだ。

 視界に広がるエマの顔は如何にも心配してましたと言わんばかりで、珍しく感情を出して歪むその顔を三村は暫くぼうっと眺めていた。

「…あれえ」

 どこか強烈な違和感があった。

『もう、何なんですかこんな処で…しっかりしてください』

 肩を支えられ、頭痛を堪えてやっとの思いで起き上がって気付く。

 部屋が、昏い。

「夜だ」

 声に出した途端何かぞっとした感覚に囚われた。ついさっきまで、自分はキッチンに立って鍋の火を見ていたのではなかったか。少し居眠りしたにしては何かがおかしい。混乱したまま周囲を見回し、ようやく奇妙な感覚の正体に気付く。

「何で俺はこんな処で寝てたんだ」

 二人が居る場所は玄関の目の前だった。キッチンからはどう頑張っても歩かないと辿り着けない。勢い良く立ち上がるとまたズキンと頭蓋の奥が疼いたが、構うものか。

『ちょっと、大丈夫ですか』

 エマを無視して辿り着いたキッチンのコンロには鍋が置かれていなかった。寝室は蛻の殻だった。何なんだ。何なんだこれは。高い音の耳鳴りが響き渡り、こめかみがドクドクと波打つ。マヌエラは?鍋の火は?

 持ち出したタブレットだけが眠る前のまま、寂しそうにキッチンのテーブルに置かれていた。

 

 

 

『話は分かりました。…分かりましたけど』

 混乱する三村を何とか落ち着かせ、エマは順を追って話を聞いた。

 はっきり言って意味不明である。

 確かに、エマが部下に頼んだのは規格外のスーツケースだ。それは間違いない。しかし、その内容は書籍と携帯と衣類だけである。“鍵のかかった”スーツケースを三村と二人で開けて、内容が間違いないことを確かめさせた。人間なんて入っている訳が無いし、それ以前に三村の手ではスーツケースは開封できないようになっていた。

 事実、エマが帰って来るまでスーツケースは未開封だったのだ。

『ところで、その子どもの名前は何て言ってました?』

 この際鍵がかかっていた話は無視するとして、万全を期した筈の荷物に異物が入っている(?)というのは大問題である。今後の信用にも関わる。

 三村はスケッチブックに名前を書いていたと言ったが、肝心のスケッチブックはそれらしきページが破られていて判断のしようが無かった。三村は記憶を頼りになんとか思い出そうとしているようだったが、見ていてあまりに辛そうだったのでやめさせようとした。頭痛が酷いらしい。

「あ」

 はたと、三村は呆けたような貌をした。そしてふらりと立ち上がり、彼は聞き間違えようの無い名前を口にした。

「ああ、そうだ。マヌエラだ」

 幼児の名前を言った瞬間、目の前のエマの表情から血の気が失せた。

「…?…ええと、エマさんにそっくりで、っていうかほぼちっちゃいエマさんみたいな女の子で、名前がマヌエラ。…そういえば、名前の先頭に何故か数字の3が付いてたな」

 エマは顔面蒼白なまま口元を抑え、ふらふらとその場に座り込んだ。そして絞り出すような声で呟く。

『それは“3”ではなく…“E”と書きたかったのではないでしょうか』

「え?」

 頭の中で幼児の書いていたスペルを思い浮かべる。確か“manuela”。先頭に付いていた“3”が“E”だったとしたら“Emanuela”と書いていたことになる。言われてみれば数字の3にしては少し角張っていたような気もする。

 だが、何故そんなことが判るのか?

 

『Emanuelaは…エマヌエラは、私の幼名です』

 

 エマヌエラ。エマ。

 彼女の言っていることを理解するのに短くない時間を要した。

『よくあるでしょう、子ども特有の書き間違いですよ。レとしの区別が付かなかったり、呂律の回らない発音で言った名称をそのまま書いてしまったり』

 私の場合はそれがアルファベットに出たんですよ。自嘲するような口調でエマはそう続けた。

「………冗談でしょ」

 頭痛が最高潮に達していた。

 つまり…つまり、確認することすら恐ろしいが、あれはエマ本人だったと言いたいのか。

『ふ、ふふ、だって今日は…覚えてます?三村さん』

 タブレットのアラーム。誕生日の“逆”。そうか、今日は。

「エマさんの両親が…その、」

『あの頃の私は親の顔なんて覚えてなかったでしょうね。二人とも朝から晩まで仕事、いつも世話をしてくれるベビーシッターを本気で母親だと思い込んでいて…父親というキーワードは存在しなかった。

 それこそ、無条件に面倒を見てくれる大人の男が目の前に現れたら、まず間違いなく父親だと思い込んだでしょうね』

 あれからもう6年になる。

 今日は、エマの両親の命日だった。