Nの二乗

 猫だ。

 ミルク色の体毛は、尻尾、足、耳の先だけほんのりとピンクみがかったブラウンになっている。尻尾はシルエットだけ見ると狸と見間違うほど大きくて太い。青い目が私をゆるゆると見上げた。

「なう」

 ゆったりと落ち着いた動きをするその猫は、拍子抜けするような変な声で鳴いた。もしかすると猫なりに甘えた声を出したのかもしれなかった。

 ふさふさと長い毛が靡く首元には、首輪を嵌めていたように見える跡は無い。だが野良にしては体が綺麗過ぎる。何処かの好事家が室内で飼っていたが脱走され、まだ時間もそう経っていない、その辺が妥当だろう。

 

 問題は、その猫が私の膝の上から動く気配が無いことだった。

 

 店員も、他の客も、余計なことを言わない静かなカフェ。併設されたテラスは直射日光をきちんと防ぎながらも抜けた造りに出来ていて、ここのところ『仕事』の帰りにちょくちょく通うようになっていた。

『………。』

 彼が帰って来る前にそろそろ帰らねばならない。これが幼児ならまだ希望が持てたが、相手が猫となれば何を言っても無駄だ。だから黙っていた。邪険にするのは気が引けるけれど、かといって保護する気も無い。

 タブレットで猫の習性について少し検索し、あまり目を見つめ続けると敵として認識されてしまう恐れが有ることを学んだ。膝から視線を外し、もう少し切りの良い処まで作業を続行することにした。

 どうせいずれ飽きて何処かに行くだろう。その前に脱走に気付いた飼い主が探しに来るかもしれない。私はそれらに見切りを付けるタイムリミットを15分と決めた。

 途中、気付いた店員が静かにやって来た。

「お客様、お手伝いすることはありますか」

 追い払う等と云ったつまらない言い方をしない店員は好きだ。

『困ってはいますが、特にお願いすることはありません』

 ダージリンをもう一杯追加した。これを飲み切ってしまったら丁度15分位になるだろう。

 去っていった店員の背を見送り、作業を続行する。

 検索と整理と統制と。資産管理を何から何まで一人でやっている内に、データベースとはすっかり友人になっていた。機械作業のように同じ操作を淡々とこなしていると、ある時から腕に違和感を覚えた。

 猫が動いていた。ただ動くだけなら無視出来たが、私の肘の内側にぐいぐいと頭を押し付けて来たからそうもいかない。手元が狂ってデータベースのトランザクションを発行しました、なんて事になったら本気で洒落にならない。仕方なくタブレットをスリープしてテーブルの上に置いた。

 私の手が空いたのを認めると、猫はその『ぐいぐい』を肘から手のひらに移動させた。撫でろということか。試しに撫でてみたらごろごろと喉を鳴らされた。合っているらしい。

 手を離してみる。ぐいぐいされる。撫でる。止まる。また手を離す。またぐいぐいされる。撫でる。…止まる。

 猫は簡単に他人に懐くものではないと思っていたが例外も居るようだ。

 ティーセットを持って戻ってきた店員は苦笑いを浮かべていた。私も同じ顔をしているのだろう。

『この辺で猫を飼っているお宅はありませんか』

 カップに熱いダージリンを注ぐ店員の動きを猫は興味津々といった様子で眺めている。じゃれついたりはしなかった。

「生憎ですがこの辺りではお聞きしません」

 それもそうだろうな、と思う。テラスの反対車線には公園と団地群。此方側にはビジネス街と無機質なホテル達。どう見ても好事家が住むような閑静な場所ではなかった。

「お力になれず申し訳御座いません」

『いえ、ありがとうございます』

 店員は済まなそうに頭を下げたが、彼を責める気は毛頭無かった。済んだ食器を下げながら店員は猫をじっと見つめて言った。

「私自身猫を飼っている訳では御座いませんが、猫は好きです。それは恐らくラグドールという種類の猫でしょう。純血統ならばかなり値が張ります」

 彼の話を聞いて私は一層この猫を保護しないことを決意した。値が張る猫を飼うような人間と無闇に関わるのは好ましくない。

 

 ティーカップが空になる。

 私は素早く猫を抱きかかえてそっと床に下ろした。足元に纏わり付いて来ない事を確認して席を立つ。これは猫を気遣った訳ではなく、下手に怪我をさせてしまうと後が面倒だからである。

 店内に戻り会計を済ませて私は歩き出した。秋物のロングコートが強い風に吹かれてばたばたと裾を鳴らす。飛んだ裾が変な所に引っかかってやしないかと背後を見た時、私は硬直した。

 猫が居た。尚も吹き続ける強い風が不快なのかきゅっと目が細められ、それでもしっかりとした足取りで此方に近付いて来る。

 私は軽く走り出した。冗談じゃない。他人の家に居候している身でありながら、無責任に猫を連れ込むなんてことはあってはならない。それに彼は猫が苦手かもしれない。

 走りながら背後を確認するが、まだ猫は付いて来ていた。心なし楽しそうに見える。違う。私は遊びの相手をしている訳ではない。そう言ってやりたくなるが、どうせ言った所で通じない。

 次の路地を曲がってもまだ付いて来るようなら諦めて止まろう。猫を保護するのも厭だったが、この追いかけっこを行き交う多くの人間に見られるのも気分が悪い。とにかくあまり目立つ事をしたくなかった。

 

 結局、路地を曲がっても猫は追いかけて来ていた。

 諦めて立ち止まった私に、猫は肩で息をしながらも擦り寄った。すりすりと足首に腹を擦り付け、またあの妙な声で鳴いた。

「なう」

 可愛げも何もあったもんじゃないその鳴き声にすっかり毒気を抜かれてしまって、私は猫を抱きかかえて歩き出した。

 猫は見た目の大きさに反して意外と軽かった。