アカい本

(二度目のダイブ篇)
 
 
「…う」
 嘘だろ。息を呑んだが、意地で顔に出さなかった。
 努めて平然としてすれ違う。顔がいいからという訳の解らない理由でPTAから毎度やり玉に遭っても受け流す能力を舐めるなよ、と誰に言うでもなく張り合う。
 
 彼女が制服を着て歩いている。
 流石に髪色はそのままだと目立つと思ったのか、黒のウィッグとカラコンを着けている。だが普段の姿を見ていない限りはイミテーションだとは思わないだろう。誰も不審に思っていない。制服も本物だ。どうやって入手したのだろうかと思ったが、あまり入手経路を想像したくないのでやめる。
 全く違和感が無い。彼女が既に高校に通う年齢でもなく、ましてやこの学校の卒業生ですらないという事実以外は何も。
 
 以前、二人きりの放課後に出没したことはあった。だが今回はレベルが違う。一番生徒の出入りが激しい昼休みの、しかも職員室前を当たり前のように歩いているのだから酷い。
 今度は何を企んでいるのか。
 朝部屋から送り出された時はいつもと同じ様子だった。いや、彼女に限ってはいつも通りこそ最も信用ならない。
 とにもかくにも、落ち着いて、根城に、戻った。
 慣れた回転椅子に腰を下ろすとどっと疲れがのしかかってきた。たった数分で5時間位立ちっぱなしだったような感覚に陥る。午後もあるのだ、探し回っている暇は無い。ひとまずSMSだけ打ち込んだ。
《見たよ。何考えてるの》
 返事は無かった。
 
 
『えっ今日気付いたんですか』
 帰って開口一番愚痴るとそんな反応が返ってきた。おい。待て。まさか。
『もう二桁は超えていますよ。ああ確かに今日すれ違いましたね』
 顔から言葉を読まれ先を言われる。その何でもないようなことを言う表情にいっそくらくらしてきた。
 二人用のソファの傍らをぽんぽんと軽く叩かれる。座るとすかさず無言で膝に乗ってこっちを見てくる。彼女が言葉少ない時は甘えたい時だ。
「何で?」
 ふわふわの髪を撫でると彼女は――エマは心地良さそうに目を閉じた。こういうところは本当に猫でかわいいが、緩む頬を引き締める。職場だけはきっちりしないと駄目だ。
『赤本を探していたんです』
 赤本?
 ともすれば誰よりも厳しい進路指導の先生に捕まりそうな場所によく入り浸っていたものだ。何より赤本ならわざわざ自分の学校に取りに行かずとも、図書館に行けば幾らでもあるだろうに。
 思ったことを言うと、『あの学校でないと駄目なんです』と言われた。
『何しろ存在しない赤本ですからね』
「え?」
 何やらきな臭くなってきたぞ。
 動きが止まった手の上に小さい顎が乗ってくる。これはもっと撫でろという意味だ。そのまま喉元をくるくると撫でると、擽るような囁くような、満足気な吐息が降ってくる。
『木を隠すにはってやつですよ』
 回収しているらしい。
 表紙だけ赤本に見せかけ、中身は全く違う本が幾つかの高校の進路指導室に隠されている。エマはそれを探しているのだという。中身についてははぐらかされた。
「特徴さえ教えてくれれば俺が持ち帰って来るけど?」
『養護教諭がそれやったら変でしょう。それに、そもそも赤本の中見たことあるんですか?』
「………。」
 いつ言っただろうか。いや、間違いなく言っていない。だが図星である。
 三村は赤本を手に取った試しがない。教師になってからではなく、今までずっとだ。人好きが幸いしてか、中高と推薦一本で第一志望にすんなり入ったので使う機会が無かったのだ。もうこの手のコールドリーディング染みた情報開示には驚かなくなってきた。
「事情は分かったし、うまくやるだろうことも想像は付くんだけど、今度からは事前に声掛けてよ」
『だって』
 撫でていた手のひらを両手で掬われ、するりと頬擦りされた。
『あなたのせんせいの顔、見たくて』
 妙な話だが、自分の瞳孔がきゅう、と開いたのが解った。
 時偶エマはこうやって、成人するまで手は出さないと宣言した境界線をスキップして嘲笑う。乗ったらこっちの負けだ。
「そうやって成人後の貯金をせっせと貯めてるけど、後で後悔しても知らないよ?」
 極力授業中のような声色で諭したが、薬指を甘噛しながら鼻で笑われた。
 
◇ ◇ ◇
 
 フィールドが学校なら受渡先も学生とは珍しい仕事が来たものだ。
 軽快な少女は一切の予備動作無しにフェンスを飛び越える。どころか、そのまま地上へダイブしていった。一瞬呆けて、その後下を見たが当然のようにもう居なかった。あの動きはエマでもやらない。出来る出来ないではなく、やらない。筋に負担が掛かり過ぎるからだ。どう見ても何も考えていない風だったので、日常的にやっている動作だろう。迷う案件だったが、敵に回る展開に持ち込まなくて正解だったと思った。理詰めのエマにあの手合いは相性が悪い。
 最近の亜細亜筋の撒き餌は本当に趣味が悪い。隠せればOK、最悪バレても学生相手、引き込んでしまうか捌いて売れば逆に得。そういった趣旨からの隠れ蓑だろう。赤本を学校で借りるような生徒は真面目だろうから、外部に相談する腰も重そうだ。本当によく考えられている。
 だからこそ、彼に見つかってでも早急に何とかする必要があった。
 
 多方面に想定通りの結果に満足したエマは、誰も居ない屋上で不要になった制服とウィッグを刻んでダストシュートに投げ入れた。