瞼裏の窓

(ちょっと見せる篇)

 

 

 日本人だから、外人だから、というテンプレート的な表現が好きじゃない。

 言い切れるほど国民全員を見渡せる筈が無いし、偉そうに出来ないししたくないし、何より自分が何かに当て嵌められるのが嫌いだ。例えば今相当しつこいナンパ男に絡まれている訳だけれど、それは彼自身に原因があるのであって、外国人全員がこうではないのだ。そんなどうでもいいことを考え始めるくらい男はしつこかった。

 男はどうも、この黒髪がお気に入りらしい。夏だからと言って金魚のような髪飾りを付けていたのも拙かった。ヤマト何とか、と頻りに叫んではまとわりつくこの男を振り切れないのは、これが待ち合わせだからだ。

「(ああ、もう、何やってるのよ)」

 苛々する。日陰に居ても尚うだるような暑さも、一向に離れる気配のない男も、見て見ぬ振りをする周囲も、その中から好奇な視線を投げてくる一部も。

 

 相方が――エマが遅刻なんて本当に珍しい。SMSは応答が無く、既読すら付いていない。下手に動くよりは待ち合わせ場所から離れないほうがいいと判断し、既に1時間が経過しようとしていた。

 それにしても男はしつこい。ジェスチャーが大振りな分輪をかけて暑苦しいのかもしれない。

 だが男の言い分も分かる。確かに今日の自分は可愛い。否、いつも可愛いのは当たり前だが、今日は一層、立ち眩みする程にかわいい。当たり前だ。だって今日は仕事の一貫なのだから。

 

 国民総パパラッチとなった昨今、アイドル産業が提供するべきコンテンツはテレビの枠内では収まらない。「休日も二人で遊んでいる」とうっかり言ってしまったが最後、本当にその場面を取って、SNSにアップするまでを求められる。良い方に考えればそれだけ営業の幅も広がっているということにもなるのかもしれないが、今回ばかりは開始前から既に帰りたくなって来た。

 

『Freeze』

 

 きた。

 腹が立つほどにすかした声色で彼女は言う。柄まで真白の日傘で目線を隠し、エマはナンパ男の背後に立っていた。そういえばこの女と待ち合わせるといつも何時の間にか誰かの背後から現れる。

 男は真っ青な顔をして逃げていった。

 

「今何したのよ」

『文化って面白いですよね。ペットボトルの蓋を背中に当てて定型文を吐いただけで、有りもしない銃口を勝手に作り出す』

「…あっそ」

『この気温の下お待たせしてしまって本当に申し訳ありませんでした』

 

 経口補水液だった。珍しく、本当に珍しくしょげた顔をしている。その表情と、受け取った時にふと触れた指先のあまりの冷たさとで、相沢ひめこはすっかり怒るタイミングを逃してしまった。

「ちょっ…と。あんた、冷え性にも程が有るわよ」

『地下から来たんです』

 飲料水に罪は無い。すっかり飲み干してから行動を開始した。

 

 ひめこの希望通りの場所でいいという事務所とエマの言葉通り、ひめこは好き勝手に行きたい所に行った。雑誌で読んで気になっていたアイス屋さん、チェックしていた古着、取り寄せたまま受け取る暇の無かったブランド物。etc,etc...

 エマは大人しく少し後ろをついて回り、"撮りどころ"ではカメラを任せた。エマの撮影技術は異様にレベルが高い。

 一通りやり尽くした所で、エマから『お夕飯は奢ります』と手を引かれた。食べ物にも罪は無い。

 

 日が落ちてもお構いなしの熱気なんて無いかのようにエマの足はすいすいと進む。どんどん人気の無い所に進んでいき、やはりというか、地下に入った。芸能人は多かれ少なかれ隠れ家に通うが、どうもこの女は元より地下が好きなようだ。

 海鮮系のスープパスタを完食し、ジェラートを注文した所で一息ついた。

 

「こういうのほんっと面倒。金輪際やりたくない」

『あら、不仲営業に切り替えますか』

「待ってる間はそれも一瞬考えた」

『”考えた”ということは、今は取りやめてくれたと思って良いでしょうか?』

「うざ」

『ふふ。カメラの前でもその素の状態のまま接してくれるなら不仲営業でも売れるでしょうね。私達』

 

 ジェラートは時間がかかるらしい。

 アイスコーヒーをもう一杯頼んでからひめこは続ける。

 

「正直そうしたいけど、そういう訳にもいかないわよ。分かってるでしょう。ファンが求めるのは可愛くて見た目通りに純粋なアイドルの相沢ひめこ。可愛いのは元からだとして、純粋なんて…本気でやりだしたらサムすぎて風邪引きそう」

『あなた元ヤンですものねえ』

「うっさい黙れ。というか、猫かぶりはあんたの十八番でしょ。あんたにそんなこと言われる筋合い無いんですけど」

 

 エマが頼んだケーキが先に運ばれてきた。上に乗っていたミントの葉を真っ先に皿に下ろす。ひめこならそのまま食べる。つくづく気の合わない相方である。

 

『ジョハリの窓を知っていますか』

 

 こいつは会う度に何か一つ薀蓄を語らないと死ぬ病気にでも罹っているのだろうか。

 沈黙をどう受け取ったのか知らないが、エマはケーキを四つに切り分けながら語る。

 

『私があなたに見せている私。あなたに隠している私。あなたから見えている私。あなたも私も知らない私。

 アイドルはそのどれでも無い。事務所の意向、コンテンツとしての価値、ファンが求める虚像、それらが綯交ぜになった汚濁を寄せ集め、メッキを塗って着飾って玄関の前に飾る。この葉はPrimaDollの私』

 

 そう結んでミントの葉を皿の隅に押しやる。葉脈を切ったのか、淡い香りがこちらにも漂ってきた。

 

『ひめこさんって言動の割に思慮深いですよね。名称こそ認識していないものの、この業界で取るべき態度を誰より弁えている。あなたの玄関先にある偶像はこの先もどんどん人が参拝しにやってくるでしょうね』

「…あんたは、」

『はい?』

「あんたは、窓なんて無いでしょう」

 

  ケーキを運ぶエマの手が止まる。

 手が止まって、待っていたジェラートが来て、それからエマが嗤った。

 

『ええ、地下ですから、窓は無いんです』

 

 ペテン師め。

 でも、ペテンをペテンと認めただけこれまでよりは少し進んだのかもしれない。なんて思ってしまった時点で自分も大分この女に毒されているのかもしれないけれど。